本ブログ cocolog 日々雑録 または 魔法の竪琴
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先日FM放送で生放送をやっていて録音したロジャー・ノリントンとN響の『英雄』交響曲だが、らららクラシックを見ていた長男が「あれ、倍管だよ!」というので、確認したら、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットは、各4名ずつではないか。
昔のカラヤン=倍管というイメージだったのだが、ピリオド奏法の先駆者もNHKホールの音響には妥協せざるを得なかったということなのだろうか?
対抗配置で、コントラバスを最後列にずらっと並べ、その後ろに反響板を並べての演奏。
スタイルはノンビブラート奏法で、ゲストのティンパニストが説明していたが、事前に小型のティンパニを用意していて、木製のマレットで叩くその響きを「軍楽隊のようだ」とノリントンが気に入って選んだのだというエピソードが語られていた。
ただ、倍管とピリオドのイメージが結びつかないので、ちょっと驚いてしまった。
ニュースによると吉田秀和さんがこの5月22日に亡くなったそうだ。98歳だった。ご冥福を祈りたい。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120527/t10015405321000.html
おこがましく思われようが、吉田秀和さんの音楽評論には私淑しており、お元気な長寿を保たれていたので、大変ショックだ。
鎌倉の街を時折散歩されていたとのことで、こちらに引っ越してきてから、鎌倉に遊びに行くたびに、もしかしたら姿を見かけられるかも知れないなどと、ミーハー的に思ったりもしていた。
先の「レコード芸術」の連載記事を走り読みしたのと、最近になってNHKFMの「名曲の楽しみ」を再び聞き始めてラフマニノフを扱った「名曲の楽しみ 吉田秀和です」を愉しみに聞き始めていた。5月26日の放送は、シューベルトだった。
朝日新聞の季刊になった音楽展望も読めなくなって久しかったのだが、この放送の言葉が思いのほかお元気だったので、よけい驚いている。
追記:
自分のブログを改めて検索してみると、「吉田秀和さんがこう書いていた」「こう言っていた」等の記事が相当多い。その中から関連記事を選んでみた。
2009年6月13日 (土) グルダのモーツァルト ピアノ・ソナタ集K.331, K.333, K.545 & K.485 (amadeo盤)
2008年7月23日 (水) 吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退
2008年2月 5日 (火) ヤナーチェク 歌劇『利口な女狐の物語』マッケラス/VPO、ルチア・ポップ、他
2007年7月 3日 (火) 7/1 ETV特集で吉田秀和氏が取り上げられた
2006年10月27日 (金) 吉田秀和氏(93)に文化勲章
2006年4月 5日 (水) 吉田秀和氏 復帰 「レコード芸術」で
2011年の春、書店の店頭に平積みになった文庫を見て、面白うそうだと思い購入した。映画化とタイアップしての文庫化だったようだ。
この万城目学という作家の本を読むのは初めてだったが、京都大学出身で、『鴨川モルホー』とかいう奇妙な題名の小説で有名になったことは知っていた。その後、テレビドラマで綾瀬はるかと玉木宏が主演で、多部未華子と児玉清が重要人物で出演していた『鹿男あをによし』というのを数年前に面白く見た。
今回の小説『プリンセス・トヨトミ』は、冒頭を読んでみたところ、結構壮大な構想のものかと期待して読み進めた。途中までは確かに面白かった。ただ、次第に尻すぼみになっていく感があり、残念だった。
つい最近テレビで映画化されたものが放送されたが、主要登場人物の性別が変更されており、違和感があった(前述のドラマでも同じような脚色があったらしい)。今回の映画化では、小説の登場人物に適したキャスティングができなかったのかも知れないが、いわゆるよく最近使われる言葉でいうと作家の「世界観」と食い違いがあるやに思えた。この映画を見て、小説をパラパラと読み直してみたが、特にエンディングの部分のどんでんがえしの趣向が失われてしまってもいた。
なにはのことはゆめのまたゆめ、なのだから、これでいいのかもしれないが、ちょっと食い足りなかった。
以前、2005年2月24日 (木) バルトークとiPodとSACDでちょっと言及し、その後 2009年11月18日 (水)ブルックナー 交響曲第0番 下野竜也指揮大阪フィル 2005年 でSACDとCDのHybrid盤を購入したが、それ以外はまったくSACDとは縁がなかった。狭い集合住宅で、大型スピーカーから音を鳴らして鑑賞するというのは、周囲の環境もあり当分実現しそうもなく、古いアンプはいまだにつないでいないほどなので(少々自嘲気味)。
ところが、最近Googleのリーダーで、あまり訪れていなかったブログを読ませてもらったところ、EMIジャパンがフルトヴェングラーのSACD(そのおこぼれのCDセットボックスを昨年入手した)に続いて、過去の名盤のリマスタリングをSACDにして発売を始めたという。さらに、同じSACDを輸入盤が Signature Collection というブックレット型のジャケットの組み物として、日本盤の数分の1の値段で販売をし始めたというではないか。(日本盤は1枚3,000円、輸入盤シリーズは、2枚組が1,450円、3枚組が1,950円ほど)
その中に含まれていたのが、以前からその音質が悩みだった、「オイストラフとセル/クリーヴランド管のブラームスのヴァイオリン協奏曲」。今回のシリーズはこれに、ブラームスのドッペルコンツェルト(オイストラフ、ロストロポーヴィチ、セル/CLO)、ベートーヴェンの三重協奏曲(リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチ、カラヤン/BPO)が組み合わされている。三重協奏曲の方はそれほど音質的には不満は無かったのだが、ドッペルの方もヴァイオリン響ほどひどくはないものの音が割れる傾向があった。
2011年10月 3日 (月) 以前音質的に不満だった音源を聴きなおしてみて(1)管弦楽, 協奏曲(EMI セル)編
2009年2月 5日 (木) ベートーヴェン ヴァイオリン、チェロ、ピアノと管弦楽のための協奏曲 ハ長調 作品56
今回のリマスタリングをSACDで聞けば、相当その不満が解消されているという期待がある。これまで重複買いをできるだけ避けてきたのだが、このシリーズでぜひ聞いてみたいものもあったので、まとめ買いをした。
EMIジャパンのSACD((公式サイト)
EMI SIGNATURE SERIES (HMVサイト)
なお、ディスクがプラスチックケースや不織布のバッグに入っていないのを心配する向きもあるようだが、下の写真のように確かにむき出しで、紙製のケースに入っている。ただ、信号面の強度は強いはずで、この紙の程度の硬さではディスク信号面に傷がつくことは、あまりないだろうが、他の汚れなども考えて不織布に入れておけば間違いないと思う。
池田清彦『新しい生物学の教科書』(新潮文庫)は、2010年7月に苦労して読了した。こちらは、読者に対して高校卒業程度の生物科目の知識を求めるもので、盛りだくさんの上、記述も堅苦しく、ところどころ挟まるエッセイ的な検定教科書批判はわかったような分からなかったようなものでありつつある程度の面白さはあったが、肝心の記述は教科書的に読みにくいものだった。この本を読んで理解するためには、参考書・解説書の類が必要なくらいだと思った。
これに比べたら、ブルーバックスで出されているアメリカの生物学の教科書(カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 )のようなものの方が、一般読者にとって有益だろう。
福岡伸一『生物と無生物の間』(講談社現代新書)は、最近購入して一日もかからずに読了した。こちらは大ベストセラーでロングセラーになるだけあり、私のような一般読者にとって読みやすい。野口英世のエピソードと現代の公平な評価については、この本が種本だったのか、どこかで読んだり聞いたりしたことがあったが、もの悲しささえ覚える偉人伝となっていた。
この福岡伸一氏は、最近銀座のフェルメールセンターを立ち上げたり、その関連テレビ番組に出演したりしているが、ボストンのハーバード大学でポスドクとして研究に従事していたときに、いつか見ようと思っていたボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館所蔵のフェルメールの『合奏』が強盗にあって見れなくなったことも書かれており、現在のフェルメール熱もポーズではないようだとも思ったりした。ニューヨークの通奏低音のエピソードなど、非常にエッセイとしても気が利いており、なるほどこれほど堅苦しそうな題名なのにベストセラーになったのも無理からぬとも思った。
以前利根川進と立花隆の「精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか」をハードカバーで購入して読んだときに、インタビューながらさすがに難解だったので、その先入観があって、この『生物と無生物の間』は手に取らなかったのだが、それはあまりにも杞憂だった。
ワトソン・クリックの先駆者や、縁の下の力持ちとして知られずにいる女性科学者の話など、第一線の遺伝生物学研究にいる学者による現代生物学史として、とてもためになる本でもある。
この本によるとハーバードでの最後の研究は、福岡氏の生物への認識を深めたものの、「研究としては」成果が上がらなかった(ように思える)のだが、その代わりに、生命というものへの認識を素人にもわかりやすく教えてくれるこのような好著が生まれたのは僥倖であろう。エピローグの少年時代のとかげの卵のエピソードには感動させられた。
2012年5月14日 (月) 5月13日の大河ドラマ『平清盛』はよく分からなかったと書いた翌週の『平清盛』だが、今度は保元の乱の前夜。
私が以前読んだ本では、源氏側は、当時の棟梁である源為義とその息子たちのグループと、為義の後継者とされていた源義朝のグループが大きく分裂して戦い、勝者の義朝が乱の後に父や兄弟の助命を願ったが許されなかったことで知られるが、一方平氏側でも、清盛の叔父(忠盛の弟)の忠正が、崇徳上皇・悪左府藤原頼長側について、清盛側とは離反して戦い、清盛は仲の良くなかった叔父の助命を行わなかったと書かれていた。
源氏にしても平氏にしても、その内紛・対立には単に人間関係がよい悪いとかの理由ではなく、領地や相続権、朝廷からの任官問題など現代にも通じる政治・経済の問題での対立がその背景にあって、後白河天皇、崇徳上皇の対立にそれぞれに与したということなのだが、ドラマではそのあたりをどのように描くかを注目していた。
前回の清盛の後白河上皇側への味方の経緯の描き方はあまりにもご都合主義的だと批判的に書いたが、今回の忠正の離反・裏切り(清盛側から言えば)も相当苦しい展開だったように感じた。
ドラマでは忠盛と池禅尼の息子の平頼盛が、天皇側につくと宣言した棟梁清盛に離反の意思を示し、それを諌めた池禅尼の意を察した(?)叔父忠正が、(心ならずも)頼盛の代わりに上皇側に付くことにし、それをひそかに清盛もやむを得ないものとして了解していた、というようなものだった。ドラマの最初の頃から、(ドラマでは白河法皇の息子である)清盛を平氏の一族だとは認めない意思表示をしていた忠正なので、忠盛亡き後に、離反させた方が自然だったのではあるまいか?
さらに史実にあるように、忠正が初めから兄忠盛、甥清盛等と、政治的な立場を異にしていて、不和だったとすればよかったのだろう。しかし、おそらく現代の家族、一族ドラマにするために、忠正を平氏を支える人物であるように描いたがための苦衷のシナリオだったのだろうが、やはり不完全燃焼の感があった。
保元、平治の乱は、本当に人間関係がややこしく、また平氏には「盛」の付く人物が山ほどいるために、今風の言葉で言えば脇役までもが「キャラの立つ」俳優でなければ区別が付かないほどだと思うので、先の清盛、義朝をライバル関係とした特別番組よりも、人間関係をもっと整理する方がよかったのではあるまいか?
なお、先の回で、義朝の弟で木曽義仲の父である源義賢が、義朝の長男でたった15歳の悪源太の異名を持つ義平に攻め滅ぼされた大蔵合戦の回が出たが、義賢が義仲の父であることをちらっとでも入れておくべきではなかったろうか?
ケチは付けつつも、いかにもリアルな風のさまざまな縅の色の大鎧の装束の着崩れた感じやなど、以前の芝居的な大河ドラマよりも臨場感は感じられたり、義朝の母(由良御前)と常盤御前の対面など興味深い場面などがあり、昨年のドラマよりはまだましなので興味深く見続けたい。
早朝の空は雲に覆われていて、期待していた金環日食が見られないのではないかとやきもきしていた。
テレビで各地の金環日食の欠け具合が報道されるのを見るにつけ、東京方面から流れてくる雲の切れ間が近づいて、太陽が顔を出してくれと思いながらときおり空を眺めて、見えなかった記録でもいいかと間歇的に写真を撮影していた。
最早7時20分を過ぎ、あきらめかけていたところ、金環日食のほんの直前の7時25分頃に次男が「見えそうだよ」と言うので、ベランダに出て見上げたところ、雲間に月に隠された円周がくっきりと輝いているのが見えた。
ちょうど雲がフィルター替わりになってくれて光度が相当弱まり、それでもと日食グラスを掛けるて見上げてみるとと何も見えないほどの弱さ。これならフィルター無し撮影できると思い写真を撮りまくった。(下の写真は、7時27分にすでに金環日食状態になった太陽が見えたところ)
我が家のあたりは、ちょうど今回の金環日食の中心線が通っているとのことで、ほぼ同心円上に太陽と月が重なり、きれいな円周上に金のリングが浮かび上がった。
よろしければ、金環日食 2012年5月21日 写真アルバムをどうぞ。
妻が図書館から借りてきてくれて、ようやくこの外伝を読むことができた。
前に正編の第3、4巻を読んでから3年ほど経ってしまったので、細部の記憶があいまいにはなっているが、なじみ深い主要登場人物たちの正編では描かれなかった物語がスピンオフとして書かれているもので、大変面白かったし、感動的でもあった。作者があとがきで書かれているように、正編にこれらを入れなかったのは納得できた。
『守り人』シリーズは少々長すぎてついていけなかったが、『獣の奏者』は物語として適度な長さであり構成感もあって、日本発のハイファンタジーとして多くの人に薦められるものだと思う。
5月21日月曜日の午前7時30分頃の金環日蝕(日食)観測のために、太陽観測用メガネを買ったり、子ども達が学校からもらったり自作したりした。
私が小中学生だった時代は、色つきの下敷きでの太陽観測が普通だった。その後、中学生の時に屈折式の望遠鏡を買ってもらったときには、太陽観測用の投影盤も付属してきたが、接眼レンズにねじ込んで使える色つきのフィルターが付いてきて、直接覗き込んで黒点観察をしたこともあった。誠文堂新光社の「天文ガイド」が懐かしい。
しかし、現在では、太陽光線に含まれる紫外線と赤外線を通さないフィルターが開発されており、今回はそれを使うように指導されるようになっている。上の写真のフィルターはすべてそのような効果を謳っているもので、これで蛍光灯を見ても全く光を通さず、太陽を見ると、それぞれ色合いが異なるものの、目に優しい照度に減光された太陽の円盤が見えるようになっている。
カメラでの撮影は、金環日食になった時点でもそれほど暗くならず、太陽光の直接撮影はカメラの受像素子を破壊する恐れがあるため、絶対やらないように呼びかけられている。写真マニアは、NDフィルターの相当強力なのを準備しているらしく、そのフィルターの機種は売り切れになっていると聞く。
自己責任で試してみようと、上の写真の手作りフィルターが適度に大きいので、デジカメの前にフィルタとして翳して撮影したのが、下記の写真(参考:星ナビ)。光学ファインダーは付いていない液晶モニターのみのデジカメなので、特に問題はないようだ。
倍率は等倍のままで、露光をマイナス2にして、ピントを∞にして撮影したもの。ほんの光点にしか見えない。
これをトリミングして拡大したものがこの写真。この程度に拡大すれば、相当粒子が粗くなるが、なんとか蝕の模様もわかるだろう。
当日の天気は、まだはっきりしないけれど、今のところ見られそうだ。
http://tenki.jp/forecaster/diary/
近隣の動物園では、チンパンジーなどの動物の行動観察も行われるそうで、そのため開園時間を午前6時からにしたそうだ。(よこはま動物園ズーラシア)
追記:2012/5/21 朝5時30分 残念。東の空は雲がかかっていて、太陽の姿は雲の向こう。
今朝の新聞を読んでいた妻が、「ディスカウが亡くなった」と知らせてくれた。86歳だったという。フィッシャー=ディースカウの妻で同じく歌手だったユリア・ヴァラディによれば「安らかに永眠した」とのことだ。
F=ディースカウの歌唱を、生で聞く機会は無く、膨大な録音もたまたま縁があって入手したごく一部しか聞いていない。
ドイツリートではこのブログでも記事にしたエッシェンバッハのピアノによるシューマンの歌曲集『詩人の恋』『リーダークライス』『ミルテの花』の歌唱が一番印象に残っている。1976年の録音で、ディースカウ50歳ごろの歌唱だが、今聞き直しても高音の伸びが素晴らしく、声にも潤いがあり、知的で慎重な印象の強いディースカウにしては熱唱の部類に入り、思わず胸が熱くなる瞬間がある。
オペラでは、ベームの指揮、ポネル演出の『フィガロの結婚』映画でのアルマヴィーヴァ伯爵の演技と歌唱は見事だし、1954年のフリッチャイの『魔笛』での30代の若きディースカウのパパゲーノもユニークだった。
リストを書き出していて思い出したが、バーンスタインとウィーンフィルのマーラーの「大地の歌」の録音で、アルトで歌われることが多いパートをバリトンの彼が歌ったものも印象が強い。
宗教音楽ではリヒター指揮のバッハの受難曲とカンタータでも多く録音を残しているが、『マタイ』のバスのレチタティーヴォとアリア "Mache dich, mein Herze, rein" を聞き、その歌唱を偲びたい。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ関係の記事
2006年4月20日 (木) シューマン 歌曲集「詩人の恋」ほか フィッシャー=ディースカウ、エッシェンバッハ
2007年1月12日 (金) シューベルト『冬の旅』 フィッシャー=ディースカウ、デムス
2012年3月 7日 (水) 以前音質的に不満だった音源を聴きなおしてみて(5) アンサンブル、声楽編
2006年11月 8日 (水) シューベルト 『白鳥の歌』 シュライアー&シフ
2008年4月26日 (土) モーツァルト 『フィガロの結婚』 3種類のベーム指揮を聴く
2007年8月 8日 (水) モーツァルト 生誕200年記念の名録音による4大オペラ全曲集 10CDボックスセット
2006年5月18日 (木) 連休の収穫6 マーラー「大地の歌」バーンスタイン/VPO ミュージックカセット
2007年6月 2日 (土) エルンスト・ヘフリガーを偲んでバッハの受難曲を聴く(マタイ受難曲)
2008年7月 5日 (土) 『四季』を題材にした曲集より『夏』の音楽 (ハイドンの「四季」)
☆白水社/ドイツグラモフォン シューベルト歌曲集
HP音楽の茶の間のページより。ディースカウの著書(『シューベルトの歌曲をたどって』だろうか?)にLP10枚ほどがセットになったもの。1970年代に父が購入。
2008年5月 3日 (土) リヒテル、ボロディン四重奏団の『ます』五重奏曲 も5月に聞いたのだったが、この爽やかな室内楽曲は5月の晴天によく似合う。
このCDは、 "The great collection of classical music" シリーズに含まれるもの。以前にホルショフスキーのピアノによる盤の時に触れたコントラバスのジュリアス・レヴァイン(ライナーの表記は、ジュリウス・レヴィンスだが、 Julius Levine という綴りで、指揮者のLevineがレヴァインなのでレヴァインでよいのだろう。2003年に逝去されているようだ。)が参加している。
他のメンバーは、ゼルキンやその義父アドルフ・ブッシュ等が主催していたマールボロ音楽祭の参加者で、ヴァイオリンはハイメ・ラレード、ヴィオラがフィリップ・ネーゲル、チェロがレスリー・パルナス。 1967年録音。タイミングは、CD表記で、13:36/7:07/4:04/8:19/6:19
この曲のピアノパートは、シューベルトのピアノの書法が上手かったのだろうが、どの演奏でもピアノの伸びやかな響きが楽しめることが多いのだが、CBS時代のゼルキンのピアノ録音としては、その美しい音色が味わえるものになっているように思う。
アンサンブルは、生真面目なルドルフ・ゼルキン主導なのだろう、とても誠実な音楽づくりではあるが、音楽祭の同僚たちの息もあっていて、暖かみが感じられる。ただ、録音の関係かどうかはわからないがホルショフスキー盤のときほどはコントラバスのレヴァインの重低音はここぞというとき以外は目立たない。
ところで、ゼルキンは、その容貌や演奏からも非常に謹厳で自己批判の強い人物だったようだが、2012年3月 3日 (土) 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹著) の面白いインタビューによると、小澤氏はその謹厳なルドルフ氏になぜか(?)とても信用され、当時未成年だった息子のピーター氏の御守役のようなものを仰せつかったのだという。この本に書かれているトロントでのグレン・グールドとの交友などはとても意外なエピソードなのだが、紙面に載せられないような話題が満載だったらしく非常に意外な感を受けた。小澤氏がキャリアの初めのころから本当に多くのいわゆるのちにビッグネームとなるような音楽家との交流や共演が盛んだったのが非常にまぶしい。この本を読むと、録音はその音楽家の本当に一部を切り取ったものでしかないのだろうということに思いいたったりもする。
「ます」五重奏曲の他の記事:
2006年3月16日 (木) ホルショフスキー、ブダペストQの鱒五重奏曲
2011年9月15日 (木) なぜか牛乳が飲めるようになったという記事で、
もっとも気温が低くなり、腹部が冷え気味になると下痢になりやすくなるので、秋から冬はどうなることかわからないが。
と懸念を書いたのだが、この冬の厳寒にも関わらず、冷たい牛乳を飲んでも腹がゴロゴロする乳糖不耐性の症状はまったく出ず、初夏の現在は多いときには、朝昼晩飲んでいる。
痛風再発以来、動物性蛋白質とアルコールをほぼ摂取しなくなり、動物性蛋白質の方は家族が普通に食べていることはすでに書いたが、最近になって誘惑に負けて少しつまんだりしてはいるものの、いわゆる痛風前の普通の食事をしていたときより、胃腸の具合が悪くなることが大幅に減った。これには食べ過ぎが大幅に減ったことも大きな要因だとは思うが、アルコール飲料を取らないのが大きく影響しているように思う。というのも、飲み会などで泥酔までいかなくても相当飲んだ翌日には決まって、下痢気味だったからだ。
アルコールによる胃腸の不調と、乳糖の不耐性に直接的な因果関係があるのかは、多くの事例を集めてみなければ確かなことは言えないだろうが、私個人としては、急に牛乳が飲めるようになったのと、禁酒が軌を一にしているので、まるっきり無関係ではないとは思う。
なお、別の要因としては、これは完全な憶測だが、牛乳製造の品質管理が、2000年ごろの加工乳による食中毒事件を機にして、多少なりとも改善されたのかも知れないなどとも思っている。最近の牛乳にはほとんど感じないのだが、以前腹がゴロゴロするような牛乳は、きまって独特の臭いがしたような記憶があるのだ。そのような牛乳では、牛乳鍋や電子レンジで温めて飲んでも同じような臭いがしていて、腹の調子は同じようにゴロゴロになった。
思えば、あの事件は古くなった牛乳を回収したものを、加工乳として再利用したもので、食品偽装の走りのようなものだったが、それが明らかになる前にはいろいろなところで同じようなことが行われていたのだろうという疑惑はぬぐいきれない。
昨日記事にした5月14日のQさまの自閉症問題だが、自閉症を安易に「病気」に分類しさらにそのイメージイラストとして抑鬱状態(いわゆる「引きこもり」状態)を示すようなものを説明的に付け加えた件は、いつの間にやら番組ホームページにおわびと訂正が掲示されていた。
ネットでは相当話題になったようだし、このホームページのBBSにも多くの訂正依頼があったのだろう。(Yahooニュースの記事に出ていた)
さて、この問題のなりゆきをネットで見ていたら、自閉症関係ではこの5月18日にNHKが昨年の3月に発表された浜松医科大による自閉症の原因と血液検査でわかるという研究結果を元にした番組を放送することが分かった。内容を検索してみると相当衝撃的な内容らしい。
念のため検索すると、浜松医科大学の関係するページに下記番組の予告のほとんどの内容が出ていることが分かった。
NHKの番組ホームページは これで、
「友達の輪に入らず、一人でばっかり遊ぶ」「まわりの空気が読めず、突拍子もない発言をしてしまう」などという言動が目立つ“発達障害”。日本でも最新の調査で患者が105万人(ADHD患者)との推計が出されるなど、増加しています。中でも、アスペルガー症候群を含む「自閉症スペクトラム障害(ASD)」は、「性格の問題」として、見過ごされるケースが多く、早期発見が課題となっています。ところが、この課題が大きく改善されるかもしれません。浜松医科大学の研究チームが、これまではっきりと分からなかったASDの脳のメカニズムを解明。さらに子供時代にASDかどうか、血液検査で簡単に分かる方法を開発したのです。ASDの科学的な分析が可能になる上、早期発見の有力な診断方法になると、世界的な注目を集めています。 番組は、世界に先駆けて日本で開発された最新の血液検査によるスクリーニング方法について詳しく紹介、またASD社員を抱えるある企業の取り組みを取材する中で、なぜこれまで見過ごされてきたのか、どう対応していけばいいのか、考えます。
とある。
なお、この件は、以下の通り昨年の3月にすでに報道されていた内容らしいが、見過ごしていた。
毎日新聞 2011年3月8日自閉症患者の脳では、人の顔を認識する部位の神経の働きが低下していることを、鈴木勝昭・浜松医科大准教授(精神科)らのチームが突き止めた。患者は人の目を見ない傾向が強く、「相手の気持ちを読めない」などの障害が指摘されている。自閉症の特徴的な症状の原因の一端が明らかになったのは初めてで、症状の悪化防止に道を開く成果という。8日発行の米精神医学誌に発表する。チームは、18~33歳の患者20人の脳を、陽電子放射断層撮影(PET)という装置で撮影し、一般の人の脳の画像と比較。患者では、脳下部にある顔の認知にかかわる部位「紡錘(ぼうすい)状回」で、脳の活動を調節する「アセチルコリン神経」の働きが最大4割低下していることを発見した。鈴木准教授は「人と視線を合わせないことが、自閉症による脳の機能低下を示している。この症状に早く気付くことで、社会性を養う訓練開始など症状を重くしない対応が可能になる」と話す。【永山悦子】
なお、NHKの番組予告がADHD(Attention Deficit / HyperactivityDisorder)と自閉症を同列に扱っているように読めるが、どのような扱いになるか少し心配だ。
この番組を見てみないことには何とも言えないが、昨年の新聞記事以降、新たに血液検査による診断ができるようになったということだろうか。さらに自閉症水銀原因説とそのキレート治療などとも絡んで興味がある。
メカニズムや原因が分かってきたということは、「治療」の可能性はあるのだろうか?
現在、ASDの中では、アスペルガー症候群、サヴァン症候群のような特殊能力について世間の注目が集まっているし、いわゆる天才的な学者、芸術家、発明家など特定分野に創造的な業績を残した人には多かれ少なかれASDの傾向が見られたとの指摘も多いが、「治療」はそのような芽を摘むことにもなるのか?
また、「優生保護法」的な処置が行われる可能性も非常に懸念される。注目したい。
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追記:2012/05/20 「急増する"大人の発達障害"」という番組を見て
このNHK総合の「情報LIVE ただイマ!」という番組は初めて見たのだが、土日の朝の情報番組の金曜日の夜版といった趣で、MCを俳優としても活躍しているコメディアンの原田泰造(ネプチューン)が務め、女優の冨士純子やサンドイッチマンの富沢、有識者などがコメンテーターとして参加するものだった。前半は、東電の値上げ。
注目の浜松医科大のASD(自閉症スペクトラム障害)の研究成果は、番組全体として取り上げられたのではなく、50分ほどの番組の後半の23分からの特集的な取り扱いで取り上げられた。結果的には生放送らしく、あまり要領のよい十分なまとめ方ではなかったので、このようなデリケートな問題を生放送でやる意味があったのか疑問だった。また特集の前には、スタジオ内のおかしな座り位置で若い女性タレントがレポートするようなコーナーもあり、普通に見ていれば気にならないのだろうが、こういうシリアスな内容にはふさわしくないと感じた。ただ、それでも何気なしにこの番組を見て、正しい知識や関心を持つ人が増えることはあるのかも知れない。
主として、知的障害が無く、成人してからの職場での人間関係の躓きからASDと診断される例が最近多いという内容で、現在20、30代の人には子どもの頃にはASDを診断できる医師が少なかったことも、成人になってからのASD診断が増えているという紹介があり、薬剤師や、大学院中退など高学歴の男性の生育史の再現ドラマや昭和大学烏山病院での成人ASDの取り組みなどが実例として登場した。
注目の浜松医科大の血液検査は、8歳以下の子どもの血液中の中性脂肪に含まれる物質(VLDL超低比重リポ蛋白)の多寡によって、少ない場合にはASDの可能性があると早期判定できるというもので、5/19のカナダの学会で発表されるとのことだった。ただ、成人になってから判定できるようなものではないようだ。その幼児時に判定できることにより、「他人の心を読む」ような社会性の訓練を早くから行えるという効果を期待するということだ。人の顔を見る場合に、ASDの場合、目の周辺に視線をやる比率が「いわゆるそうでない人」(40%)に比べて圧倒的に低い(17%)というような研究結果も紹介された。治療法という段階までは研究は進んでいないようだ。その他、PET(ポジトロン断層法)による診断(上記毎日新聞の記事)も紹介された。
また、現在の日本の就活では、対人コミュニケーション能力が極度に重視されている(高倉健のような「不器用ですから」は許されない社会)が、その一方でデンマークのIT企業では、ASDの人の集中力、こだわりなどのパーソナリティを活用してプログラムのバグ取りに大きな効果を上げているなどの事例も紹介された。今回の研究が、レッテル貼りにならないような社会としていく必要がある、などのコメントも出されたりした。(番組冒頭の50代女性からのメール紹介がすべてを語っていた。)
これまで必ずしも科学的に語られることがなかったASD(心理学、精神医学はどうしてもそのような傾向があるのだろう)が、生化学や行動科学といった観点で有意なデータが得られてきたという点で、エポックメーキングなのかも知れない、と思った。
http://www.tv-asahi.co.jp/qsama/
長男が好きなので毎回楽しみに見ているのだが、 5月14日の放送の問題で、「10年間で患者数が増えている病気を書け」というのがあり、その選択肢の中に「自閉症」「痛風」があり驚いた。
(他の選択肢は、「うつ病」「片頭痛」「脱毛症」「エイズ」「前立腺がん」「アルツハイマー病」「睡眠障害」「緑内障」「「痔核」で、上記2つを含めた全11の内、減っているものが一つだけあり、それを選ぶと「ドボン」でクリアならずというルール)
まずは、「自閉症」が、病気に分類されていることに驚いた。
この障がいについては、近年「成人の発達障害」に関する新書なども何種類か発行されていて単なる後天的な病気ではないという認識が相当広まってきていると思っていたが、テレビのようなマスメディアレベルでは単なる病気(治療により回復できる)だと認識されているようで、その証拠に回答の時に表示されたイメージイラストがその誤解をよく表していた。おそらくイラストレーターと番組制作者の認識は、「自閉症」という一般的な症状名からの連想で「引きこもり」「うつ状態」のようなものと考えているのだろう。
近年そのような誤解を避ける意味や、個々人によって異なる多様な状態を表すために自閉症スペクトラム(スペクトル、連続体、分布範囲)、「広汎性発達障害」と呼ばれるようになっているのだが、この「症状」自体が、広い意味では、個性や性格の一種であり、それが社会的に受け入れられるかどうか(その症状のどのあたりの段階までが社会的な適応ができるか)は、その社会の性格を逆にあぶりだすような「障がい」だと認識されているようだ。
現在の研究では、先天的な脳の「特徴」の表れであり、その意味でいわゆる一般人の性格や能力(知能、運動神経)が「治療」できないのと同じように、「治療」という概念があてはまるかどうかも分からない。アスペルガー症候群は、自閉症・広汎性発達障害の内、特定領域のIQが高いものを指し、あまりいい意味ではないがアスペという略語で語られることも増えている。
先の大阪維新の会に「自閉症は両親の愛情不足」であるというような条例案の存在が暴露され、維新の会の代表である大阪市長が撤回せざるを得なかったことともども、政治家、官僚、マスメディア関係には、熟慮を切に願いたいものだ。
ただ、後で調べてみると、厚生労働省のホームページの平成20年患者調査(傷病分類編)には、で自閉症が項目名として取り上げられていたので、いわゆる「病気」に分類したのは番組だけの責任とは言えないが、番組としての一家言ある取り上げ方が望ましかった。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/10syoubyo/suiihyo19.html
また、このクイズでは、患者数が減っているものが誤答なのだが、痛風患者はこの10年間で減っているという。とても意外に思った。というのも、その予備軍である「高尿酸血症」は近年急激に増加していて、特に40代未満の若年層にも増えていると言われているからだ。
なお、これについても厚生労働省のホームページでは、
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/10syoubyo/suiihyo38.html
とされており、実際外来患者数は減っているとなっており、番組はこれに基づいているのだろうが、高尿酸血症が問題になっている昨今、この取り上げ方は、視聴者に誤解を与えるものだといえよう。
視聴率の低さがそのままそのテレビ番組の質の低さではないということで、2012年の『平清盛』を応援していたのだが、この日曜日の内容には少々疑問を持った。
前回、今回と、鳥羽法皇と崇徳上皇との仲の修復を熱心に取り持ったにも関わらず、義朝と信西の「守りたいもの」という示唆によって、あっさりと崇徳上皇を裏切った清盛の行動にはついていけなかった。崇徳上皇が危篤の鳥羽上皇を見舞うシーンでの清盛の態度には、苦悩の色は見えず、むしろ裏切りを後ろめたく感じている怯懦な風が見え、武家の棟梁としてはあまりにも卑小に感じられた。
前回までのあの熱心な崇徳上皇へのとりなしから、この先史実にあるようにどのようにして保元の乱で後白河天皇方になるのだろうとその描き方に興味を持っていたのだが、崇徳上皇方から後白河天皇方(鳥羽上皇方、信西方)への転向における逡巡や葛藤の心理描写を省略しすぎたように感じられ、自分としては、清盛=信用ならない男というイメージが強くなってしまった。これでは、感情移入ができない。
その一方清盛の父忠盛の妻池禅尼は崇徳上皇の皇子で後白河天皇の皇位を巡るライバルだった重仁親王の乳母でありながら、史実では保元の乱に先立って、平家一門に後白河天皇方への味方をアドバイスしたという、これもいうなれば裏切り的な行為があったのだが、このあたりも省かれていて、その反面清盛の叔父忠正に対して、それとなく、何らかの依頼をほのめかしていたが、果たして故忠盛の願いとは何だったのだろうか?
信西が後白河天皇の乳母の夫であったことや、前述の池禅尼が重仁親王の乳母であったこと、藤原家など堂上貴族と天皇家の姻戚関係などをきちんと描かずに、この複雑極まる人間関係を整理するのは困難であろうし、もう少し丹念に描いてほしかった。
崇徳上皇のうらみつらみの強さはよく描けていたが、逆に鳥羽上皇の女々しいまでの反省・後悔はそのように矛盾に満ちた人物だったとしてもくどかったし、清盛があくまでも天皇家の和を追及する「いい人」に描かれ過ぎていながらあっさりと裏切りを行ったのは、木に竹を接いだような違和感が湧いた。
後白河天皇の寵姫となる、平滋子の登場も少し作り過ぎだった。なぜ、天然パーマ?
こちらの脚本や演出への理解が不足なのか、それともしっかりした原作の無いNHKの大河ドラマ制作に欠点があるのか、残念ながらそんなことも考えてしまった。これだけ長大な歴史絵巻を、オリジナル脚本で対応しようというところに無理があるのではなかろうか。せっかく愉しみにしているドラマなので頑張ってもらいたいものだ。
普通の全自動洗濯機にはカビや洗剤カスなどの汚れが洗濯槽の裏側(見えない部分)にいつのまにか付着し、洗濯をしたつもりでいても逆に衣類に裏側についていた汚れやカビが付いてしまうということがある。洗濯機もメンテナンスをしないでいると、その汚れが目立ってくるようだ。特に、シャツの襟の先端の部分にその汚れがつくと結構目立ってしまい、再度洗濯をせざるを得なくなるのが困る。
数年前のテレビ番組で、洗濯槽の裏側の汚れが報道されてからは、薬品、洗剤メーカーでも塩素系の洗濯槽洗剤を売り出し、ドラッグストアなどでよく見かける。これから梅雨の時期になるので、セールなども行われることだろう。
2から3か月ごとに一度この洗剤でのクリーニングを行い、洗濯槽を常時乾燥させるように心掛けることで、カビの発生は防げるようなのだが、それでも10年も使ってきた我が家の丈夫な日立製の洗濯機では、最近どうもその効果が薄れてきて、買い換えようかという話もでてきた。
そこで、インターネットで、いろいろな洗い方を調べてみたが、
このリンク:洗濯槽の正しい洗い方.
の内容に納得がいったので試してみた。
今回行ったのは、ここで紹介されている方法に完全準拠ではないが、終い風呂の後の残り湯を洗濯槽に一杯に張り、酸素系の漂白剤を相当大量に投入し、よく溶かして一晩おいておき、翌朝、数種類のモードで洗濯槽の水を回してみた。
黒くぬるぬるした昆布の切れ端のような汚れが相当大量に水に浮きだしてきたので、こまめに掬い取り、さらに水を換えて数度よくすすいだので、結構きれいになったようではある。
ただ、完全に取りきることは難しく、しばらくは逆に落ち切らなかったカスが特にタオル地のものには付着しそうなので、タオル地のいらない布に吸着されるなどしながら、一週間後くらいに再度洗浄してみる必要があるかも知れない。
電子書籍は記憶に残りにくい? 脳科学から問う 紙の本VS電子書籍 (ダ・ヴィンチ) - Yahoo!ニュース
という記事を読んで、なるほどと思った。
本格的な電子書籍ではないが、数年前に発売された任天堂DSというゲーム機用のソフトで著作権切れの日本文学が多数収録されたソフトウェアが出て、しばらくそれを楽しんだことはこのブログでも書いたが、
おそらく、ブログの記事にでもしていなければ、忘れてしまっていただろうと思うことが多い。
同じように音楽鑑賞でも、大量の音源が収録できるDAP デジタル・オーディオ・プレーヤーでの鑑賞は、ながら鑑賞になりやすいこと、飽きればすぐに別の音楽を選べること、などが相まって、音楽に集中するレベルが、実演やオーディオセットでのLPでの鑑賞とは比べるべくもないが、ポータブルCDプレーヤーでの鑑賞に比べても、劣るように思う。そのためか、記憶に残ることが少ないように思う。
本にしても、読了した本を開架の本棚に背表紙を見えるように並べておくことによって、たえず記憶神経回路が刺激を受け、そのことによって内容や感想の記憶が定着すると言われ、それに比べて、感想文でも残しておけば別だが、図書館から借りて読んだ本は記憶に留まることが少ないと言われ、実体験でもそれを感じる。
また、記憶の鍵やトリガーになる周辺環境的な感覚(イメージ、色、臭い、味、感触など)を伴う記憶が残りやすいとされ、指揮者の故岩城宏之氏のエッセイ『楽譜の風景』に書かれていたように、『春の祭典』のような難曲の暗譜にはページのシミなどのイメージ情報、見開きの「風景」が役立ったとされるが、フォントの大きさや段組みなども自由にレイアウトできる電子書籍では、そのようなキイになる情報は所与のものとしては与えられないことになる。
電子化のメリットは、莫大なものがあることはあるのだろうし、これからの若い世代にとってはそのような情報環境の中で育つことで、また記憶のありようも変わってくる可能性もあるのだとは思うし、情報の複写、配布、検索という点では特に利便性があるのだろうが、一個人としての受容という意味では、問題があるのかも知れない。
先日の東博のボストン美術館展では、伊藤若冲の作品は数点しかなかったが、それまで名前も知らなかった(ポスターの漫画的な龍の画は誰のものだろうと思っていたほど)曾我蕭白の作品が第2室の最後の方に大作がまとめて10点ほど展示されており、先の記事でも書いたが、初めて見たときには『久米仙人図屏風』などの奇怪な面相が違和感を強く感じさせる画風で抵抗感があり、なぜこのような画家の作品が大量に飾られているのか不審に思ったほどだったが、『商山四皓図屏風』の骨太な線とユーモラスさは好感をもった。緻密な山水画などや、ポスターにもなった巨大な龍の襖絵など、とにかくスケールも緻密さも併せ持った巨大な画家であるという印象を持った。
若冲の方は、近年展覧会も多く、テレビや一般向けの雑誌などでも取り上げられるので、それこそ我が家も含めて女子供でも知るようになった著名な画家になっているが、蕭白については今回の展覧会が初めてでみな一様に衝撃を受けたような面持だった。
そこで、東博地下のミュージアムショップで売られていた新潮社のとんぼの本シリーズで、伊藤若冲と曾我蕭白(狩野博幸著)を購入してきた。
その中で、辻惟雄(つじ・のぶお)『奇想の系譜』(1970年)でこの二人が取り上げられて近年の再評価につながったと書かれていたので、調べたところ、ちくま学芸文庫版が入手可能ということで、書店で購入してきて、一気に読み終えた。上記の二人以外は、先日テレビで紹介番組を見て猫のような虎の襖絵が気に入った長沢蘆雪も取り上げられていて、なるほどと思った。他には、岩佐又兵衛(信長に叛旗を翻した荒木村重の妾腹の子で、江戸初期には松平忠直にも仕えたという人物)、狩野山雪、歌川国芳。
脱線をも恐れない執拗とも言えるエネルギーは、通俗的な解釈ではあるが、縄文時代の土器、土偶を連想させるものがあるように思った。若冲も蕭白もいずれも大変なヴィルトゥオーゾであり、その強烈さは胸焼けがするほどで、特に蕭白にそれが著しいように思う。もしそれが可能だとしてもとても自宅に飾るようなことはできないだろう。
今回の東博でも平成館一階の考古学展示を見てきたのだが、特に土器では、縄文時代に比べると、弥生時代、土師器須恵器はより薄く、固く、実用的にはなっていて、プロポーションの整った落ち着いた美しさもあるのだろうが、ぐっと興味が薄れてしまい、近世の古伊万里など、中島誠之助氏など「いい仕事ですね」を連発しそうな名品でもまったく興味がわかなくなってしまうといういつもながらの鑑賞だったのだが、特に蕭白に感じる過剰さ、異形ぶりへの違和感と興味はどうも縄文への興味関心と似たところに肝があるように感じたのだった。
昨年の出光美術館の展覧会は、風流であり古雅であり過ぎてよさがわからなかったが、この春に見ることができた、雪舟、応挙(「鯉魚図」三幅、登竜門の滝登り)を初めとして、東博本館とボストン美術館展で、すっかり日本の古い絵画作品にも興味がわいてきた。本物の持つ迫力に中てられたのだろうか?
フランスはサルコジからオランドに大統領が変わったが、ロシアはまたプーチンが大統領となった。フランス的変化とロシア的停滞だろうか?
一昨日の5月6日(日)の連休最終日の竜巻は恐るべき自然の猛威だった。当地では午前中から午後3時ごろまでは好天で、天気が不安定との予報は出ていたものの、いやに蒸し暑く、少し風が強いだけでこのまま天気は持つのではと思っていた。ちょっと外出して街路樹を撮影したときは初夏らしいいい天気だった。
皐月もレッドロビンも花盛り(14時ごろ)
が、次第に西空が黒雲に覆われてきて、遠雷も鳴り始め、風が強まってきたので、天気が崩れそうなので洗濯物を取り込み始めた。15時ごろにいきなり大きな雨粒が落ちてきたかと思うと突風が吹き始め、南西側からの強風が雨粒とともに窓ガラスに吹き付ける嵐となった。白いものが混じっているので雹かと思いベランダを見てみると果たして雹だった。風と雨はこれまであまり記憶が無いほどの強さで、このまま続いたら大変なことになると思っていたら5分もせずにやんでくれてほっとした。
テレビを付けると川崎の等々力競技場では、陸上競技大会がテレビでライブ中継されており、日本の一線級に交じって海外の一流選手も招待されて参加していたが、こちらからは30分ほど遅れて風雨に見舞われたようだった。
そのうち、NHKで関東地方の暴風情報とかいう青囲みの情報が出始め、北関東で被害が発生したとのテロップが流れたが、他の局ではその時点ではまったく緊迫感もないふつうの放送が行われていた。
17時ごろには東北の方向に虹がかすかに掛った。
竜巻被害の報道が始まったのは6時のニュース頃からだったように思う。
5月4日に上野に外出したついでに、蒲田で下車して、以前から食べたいと思っていた蒲田名物の羽根付き餃子を昼食にした(列車や美術館で近くになった方々、一家揃ってニンニク臭がするのではないかと気になっていたけど、もし臭っていたら御免なさい)。
いくつか人気店、有名店はあるらしいが、このところ孤独のグルメ風に繁華街で旨そうな店のありそうな方面を勘で探り当てるような愉しみ方を覚えたので、あらかじめ下調べはせずに、今回もその流儀でやってみた。
蒲田は、以前在信州だった頃には何度も出張で訪れた街なのだが、主に西口方面しか知らず、以前一度東口のホテルに宿を取ったときに、周辺の食べ物屋の賑わいが印象に残っていたが、当時は餃子が有名だとは知らなかった。今回はJR蒲田駅の東口から京急の蒲田方面に足を延ばしてみた。(ただ、地元の名物料理というものは意外と目に入らないようで、以前横須賀で海軍カレーを食べようと少し歩き回ったのだが、なかなか見つからずにとうとう別の料理のどこにでもあるチェーン店で我慢したことがあった。)
京急蒲田駅方面につながるアーケード街に入ってみて、すぐに見つかったのがこの店で、金春本館(きんしゅんではなくて、能楽の方と同じく こんぱる と読むらしい)。
とても派手な店構えだが、なんとなく旨そうな感じだったので、入ってみた。店内はちょっと狭かったが、名物の焼き餃子が安い。なんと一皿6個で300円也(税別)。とてもリーズナブルな値段で驚いた。
これを一人一皿で四皿分、韮餃子を四個、三鮮蒸餃子(10個)を一皿にそれぞれご飯(スープ付き)を頼んだ。色彩的には白系一色となってしまったが、羽根がきれいについた焼き餃子は肉汁たっぷりで、ご飯が進む美味しさだった。韮餃子は、韮と卵が具として入った珍しいもの。信州の田舎の韮せんべいというおやつと似通った感じ。蒸し餃子の具は海老が主体のようで、プリプリと美味しかった。
我が家の手作り餃子は大蒜を入れない野菜たっぷりの焼き餃子で、子どもたちの大好物なのだが、外食で食べる餃子はえてして具が少なかったり小さかったりであまり満足したことは無い。しかし、ここの餃子はとても好評だった。
こげ茶色の羽根が何とも食欲をそそる。(大皿に四皿分載せられている)
ところで、蒲田と言えば、現在放送中のNHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』を録画などして見ている。
最近の我が家では、あまりにもひどい脚本のドラマを、昨年放送されたドラマにひっかけて、『南極大陸』並みだと言っている。『南極大陸』は、題材的にはそれなりに力作で、結構面白かったのだが、犬たちの「演技」などがそれはそれは突っ込みどころ満載だった。これまで比較的好意的に見てきた『梅ちゃん先生』にも残念ながら馬脚があったようで、だんだんそれが目立ってきたようで心配している。
東京の医専に通う女子学生たちが、横須賀の旧海軍が保管していた薬品の放出品を引き取りに行く回は、あまりの非現実的な設定が見られて、あり得ないの連発だった。横須賀からの距離、大八車、運よく通りかかった親切なトラック運転手。医専に戻れた時間。
さらに、先週梅子が追試験を途中放棄してまで友人の結婚問題に首を突っ込み、すは落第で退学かという矢先に、あまりにもあっさりと友人たちのとりなしで再々試験が認められた回の、あまりのご都合主義。
最近は、わざと「下手」に作って味を出そうとするヘタウマがドラマ界でも流行しているようで勇者ヨシヒコ、南極大陸、家政婦のミタ、こども警察などはその類なのだろうが、上手いのかそれとも稚拙なのかの区別がつきにくいことが多くなっているのだが、このドラマはいったいどちらなのだろうか? 突っ込みどころがあまりない、もっと正攻法の脚本、演出が望まれるように思う。
5月5日の子供の日は、梅雨時末期のような大雨一過の「皐月晴れ」(衒学的には違うけど)となった。
せっかくの好天ながら、孤独のグルメ+美術館めぐりという最近の恒例のようになった家族小旅行で、5月4日に蒲田餃子+東京国立博物館に行き、その疲れで、体を労わる日となった(要するにグダグダしていただけ)。
5月5日の夜の月は、スーパームーンと言われるらしく、月が地球を公転している軌道の中で近地球点(というのだろうか?最も地球に近づいた時)にあたり、普通の満月よりも相当明るいのだというが、確かに明るい月だった。その分引力(潮汐力)も相当強くなるようで、昨年の大震災の前にもこのスーパームーン現象があり、その関連性が取りざたされたことがあった。
さて、パソコン等では、スクロールする (scroll)という言葉が日常用語になっている。
この scroll という英単語だが、5月4日(金)のみどりの日に、東京国立博物館(東博)で開催中のボストン美術館展を見に行ったついでに、東博本館で展示中ということを聞いていた国宝平治物語絵巻「六波羅行幸」の方を先に見たのだが、その際の英語の説明に Scroll と書かれていて、ユーレーカ!となったのだった。何かが分かった-知っていること同士が結合した-ときの知的興奮というものは、まことにいいものだ。
辞書によると Scroll は、 Roll と同じ語源で、巻いたものという意味があるようだ。それでコンピュータのスクロールも、ちょうど巻物を見るように上下、左右に「巻きながら」見るという動作から来ているらしい。
今月は、これまで見たことのないようなScroll の傑作、名品を連続してみる機会に恵まれた。
一つは、つい先日の4月29日に鑑賞したサントリー美術館の毛利家の至宝に含まれていた雪舟の「四季山水図」。
次に、今回見ることができた東京国立博物館の本館で展示されていた「平治物語絵巻 六波羅行幸巻」。
そして、今回ボストン美術館から里帰りした「吉備大臣入唐絵巻全巻」と「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」。
久々に訪れた東博でもあり(前回は国宝阿修羅展)、平成館の特別展は相当混雑しているとのことだったので、まずは本館をじっくりみることにした。(東洋館は残念ながら工事中とかで閉鎖中。耐震工事などだろうか?)。なお、現在、世田谷の静嘉堂文庫美術館(三菱の岩崎家の宝物館)でも所蔵の平治物語絵巻が公開されているとのこと。
信西(高階通憲)・平清盛と藤原信頼・源義朝が争った平治の乱を描いた合戦絵巻の傑作、「平治物語絵巻」の現存する3巻が、この春、東京で揃って展示されます。またとない貴重な機会ですので、ぜひ3巻あわせてご覧ください。
・当館所蔵の「信西巻」(上図はその部分)は、本展前期にて展示(4/14~5/20。但し巻き替え を行ないます)
・ボストン美術館所蔵の「三条殿夜討巻」は、東京国立博物館での特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」にて展示(3/20~6/10)
・東京国立博物館所蔵の「六波羅行幸巻」は、同館の本館2室・国宝室にて展示(4/17~5/27)
本館2階は、日本美術史の流れをテーマに、長岡市出土の火焔型の縄文土器が出迎えてくれ、その後に、この5月27日まで展示されている平治物語絵巻 六波羅行幸を見ることができる。
先日見る機会を得た雪舟の大作の巻物に比べて、こちらは絵巻物であり、また著名な歴史的事件を題材にしていることもあって、分かりやすい。現代、爛熟を極めている日本の漫画、アニメーションのはるかな源流として、鳥獣戯画がよく挙げられるが、劇画としての源流には、これら戦記物の絵巻が源流になるのではなかろうかと思われるほど、緻密、精細であり、牛馬の躍動感、人物たちの多彩な容貌と表情、ポーズ、武者たちの鎧兜の縅の色の鮮やかさ、細やかさなど、まったくもって素晴らしいものだった。芸術的な感激とは異なるだろうが、絵巻物(Scroll)がこれほどのものとは、やはり実物を見ることで体感できる類のものだろうと思う。
その他さまざまな展示のある二階をぐるっと見て回った後には、平成24年に国宝・重文に指定された日本各地の重要な美術品が集められて展示されている特別室があり、その中にはなんと先日「電脳郊外散歩道」ブログの記事にコメントさせてもらった山形県の縄文時代の土偶の女神像の実物も展示されていた。写真でもその造形と欠損がほとんどない保存の素晴らしさは感じられていたのだが、実物の迫力は圧倒的だった。
ただ、この舟形町西ノ前遺跡出土の土偶も「縄文のビーナス」と称されることが多いようだが、長野県の茅野市棚畑遺跡出土で先に国宝に指定されていて「縄文のビーナス」と呼ばれていた土偶(これも現地の尖石遺跡での展示を見に行ったことがある)との混同が生じそうなので、呼び分けが必要ではあるまいか?
この部屋は全面的に撮影禁止(基本的に東博所有のものは撮影禁止ではないが、個人所有、他館からの貸し出しなどで、所有者の了解の取れていないものは原則禁止のようだ)となっていた。新しく指定されたとは言え、他にも一階の特別室にも素晴らしい仏教彫刻等が多く、どうしてこれがこれまで指定されていなかったのだろうと思うようなものもあった。特に地元神奈川県のものが今回数点新たに重文指定されていたのは新聞記事で読んではいたが、実物が見られるとは思っていなかったので、不意打ち的で興味深かった。中でも、鎌倉の建長寺の開祖である蘭渓道隆の肖像彫刻は非常に見事なものだった。
本館でじっくり見学していたらあっという間に16時半になっており、17時で特別展の終了時間ということでうっかり見逃すことになりかねないと慌てて平成館の方に移動したところ、この日は金曜日で、なんと夜の20時まで観覧できるというアナウンスが流れていてほっとした(どうもスマートな鑑賞にはならない)。
通常の順路は第一展示室の方からで、こちらに絵巻物が展示されているのだが、まだ相当混雑しているようで、係の女性も大変込んでおりますとアナウンスしていたので、先に第二展示室から見ることにした。
このパンフレットにあるように、垂涎の名品が里帰りしており、目玉の絵巻物以外にも見ものは多く、この展覧会前には知らなかった曽我蕭白の作品が数多く展示されており、とても奇異な日本画だと最初は違和感を覚えたが、再度見直してみると非常に面白く感じた。
18時ごろに第一展示室に戻ると、混雑も相当緩和されていて、結構悠々と鑑賞できたが、さすがに絵巻物の展示では数珠つなぎ状態での見物を余儀なくされた。しかしむしろ牛歩のようなそのスピードが鑑賞には適しており、伴大納言絵巻と並び称される吉備真備の遣唐使行を題材とした奇想天外な超人伝奇譚的な絵巻には、劇画というよりもユーモラスな余裕が感じられ、大変面白かった。周囲の鑑賞者の人たちも楽しんでいるのが分かる感じだった。
平治物語絵巻は、藤原信頼と源義朝による後白河院の御殿の襲撃と拉致の様子を描いた部分であり、ちょうど放送中の大河ドラマ「平清盛」では、清盛が絶対的な権力を掌握する要となる事件でもありこれからの放送が待たれる場面なのだが、よく教科書にも載せられる地獄の業火のような火焔のすさまじさの場面や、戦の凄絶、残酷な場面なども、人物に動きは感じられないものの、やはり精緻、詳細に描かれており、その技術や構成力のすごさを思い知らされるものだった。保存状態も驚くほどよかった。
なお、地味ながら非常に貴重な仏教画としては、東大寺の法華堂(あの有名な日光月光菩薩像の安置されている三月堂)の曼荼羅図という8世紀制作のものも展示されていたのには驚いた。東大寺のような大寺院にも廃仏毀釈が及んでいたのだろうか。
先に読み終えた『夜明け前』第二部は、廃仏毀釈を行った側について多く触れられていたのだが、その裏面では、フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らの努力により、このような貴重な傑作が残されたということも忘れてはならないだろうと思った。これは大英博物館的な文化財略奪とは異なるものではあるだろう。
考古館の展示も久々に見て、本館に戻り外に出ると雨は上がっており、5月5日のスーパームーン前夜の月が皓皓と白く光っていた。
(20時閉館前の東博正面)
追記:5月6日 NHKのEテレの日曜美術館が、今回のボストン美術館展を特集したのを見た。実際に見たり、見逃してしまったものを放送で見るというのも面白いものだった。なお、岡倉天心について触れないのは不思議だった。
5月4日のみどりの日は、一応雨も上がり、五月の薫風が心地よい時間帯もあったが、午後にはまた雨が降り始め、せっかくの4連休の前半2日は外出には適さない天気だった。
以前購入してWINDOWS XP機のhp nx6120に接続してみたときにはあまりの雑音のためにお蔵入りとしたUSB接続のスピーカーの超廉価品(購入価格1000円未満)だが、先のflac関係で使い始めたfoobar2000の音がこれまでよりも一皮剥けた音質なので、これをプレーヤーとして外部スピーカーで聞いてみようかと思いつき、探し出してきて現在のEpson NY3000につないでみたところ、このPCの雑音源が以前のPCよりもきちんとシールドされているのか意外にも当時気になった盛大な雑音が聞こえず、普通に使えることが分かった。ただ、今の使用場所も狭く、イアフォンで聞けば十分なので、さてどうしようかと考えた。
一方、薄型テレビの音質はもう慣れたとはいえ、人の声(台詞やナレーション、アナウンス)が聞こえにくいことは変わりがない。そのため、我が家ではドラマなど字幕放送が現在ではほとんどなので、字幕を出すのが普通の使い方になっている(Blu-rayレコーダーに録画したものもきちんと字幕データは収録されており、字幕を出してみることがほとんど)。
以前調べたときに薄型テレビの裏面端子・ソケットエリアに、USBのソケットが整備用のソケットという名称でマニュアルには記載されていて、試しにUSB機器をつないでみたところ通電されているのがあったのを思い出し、そのソケットにスピーカーのUSBプラグを差し込んで電源を取り、さらに裏面の音声出力L/R端子にステレオピンプラグアダプタを付けてあるので、そこにピンプラグを差し込んでやって、テレビの電源を入れたところ、当然ながら音が出た。
軽いプラスチック製のスピーカーなので、ペラペラとしたそれこそ安っぽい音なのだが、テレビのスピーカーよりも高音が伸びるためか、小音量でも人の声が聞き取りやすいのには驚いた。
ただ、このスピーカーだけだと人の声はクロースアップされたように明瞭だが、背景になる音楽や効果音など引っ込んでしまい寂しいので、テレビのスピーカーを背景音的に使い、USBスピーカーを声ように使うとバランスがよいようだ。
5月3日の憲法記念日は、昨夜からの大雨が続いていて、梅雨どきのようにじとじとしていた。外出せずに、身の回りの整理やテレビ番組のHDD録画のDVDへのダビングなどの作業をした程度。(写真は、5月3日朝7時頃の篠突くような雨)
昨年11月にブックオフで購入。音楽記事は久々だが、まとめて聞く時間が取れたので、簡単にメモしておきたい。
Mozart 交響曲集
第35番K.385「ハフナー」
第36番K.425「リンツ」
第37番K.444(425a)第1楽章(ミヒャエル・ハイドンの交響曲への補筆:序奏部分がモーツァルトの作品)
第38番K.504「プラハ」
第39番K.543
第40番K.550
第41番K.551「ジュピター」
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮イギリス室内管弦楽団 (Jean-Francois Paillard / English Chamber Orcestra)
録音 1977年10月23日~28日、ロンドン、EMIスタジオ
Producer: Masamitsu Kurokawa, Recording Supervisor: Michel Garcin, Recording Enigineer: Christopher Parker
(RCA 2 for 1 series BMG VICTOR Inc. BVCC-8823-24, 1995/6/21)
ジャン=フランソワ・パイヤールが、自身が組織したフランスのパイヤール室内管弦楽団ではなく、隣国のイギリス室内管弦楽団(バレンボイムやブリテン、ペライアなどの指揮した録音が残されている)を指揮して、珍しい第37番の第1楽章(序奏部のみモーツァルトの作品で、それ以降はミハイル・ハイドンの作品)も含めて1977年に録音したもので、日本のリスナーからのリクエストにより録音されたものだと聞いたことがある。
室内オーケストラでのモーツァルトは、当時すでにマリナーやバレンボイムなどが先鞭を付けていたが、パイヤールのモーツァルトはランパルとラスキーヌとのフルートとハープ協奏曲のオーケストラを担当していることから、知名度の点では高かった。フランスと縁の深かったモーツァルトにしては、フランスのオーケストラが取り上げることが比較的少ないという印象なのも今から考えれば不思議だが。モーツァルトを得意としたフランス系といったら、モントゥーくらいだろうか?
先の経緯からして特に日本で評判の良かった録音だというが、今聞いてみても、悪くはない、というよりもむしろ高水準の演奏、録音だと思う。演奏スタイルは、モダン楽器による「伝統的な」モダンスタイルであり、配置もヴァイオリンは対抗配置型ではない。弦と管の音量バランスや風通しのよい響きから、比較的少人数のオーケストラと知れるが、きびきびとした軽快なテンポによるアンサンブルは大変好ましい。
解釈的には、とりわけ目覚ましいものがあるのではないが、力まず品よく美しくそしてここが肝心なところだが、奇を衒わずに誠実にリアライズしているとでも言おうか、さらにバロック音楽が得意な指揮者ゆえにだろう、対位法的な扱いに優れ、各声部が生き生きとしている。
それゆえにか、モーツァルトの交響曲における天才性、凄みが巧まずして、自然に立ち上ってくるように感じる。
構えなくても自然に心に染み入るようなこのような演奏が、あの時代のモーツァルト演奏の一つの理想だったのかも知れない。
昨年あたり RCAのxrcdシリーズで再発されたようだが、HMVを見ると廃盤になっているのは惜しい。
この講座も第4課。
今回のナレーションは、elementary schoolの高学年くらいの少女が母親へ語りかけをしたもの。第2課の The Age of Discovery の教師役を演じた女性 (Textには 英文吹き込みとして、Carolyn Miller という女性名が挙がっているがこの人だろうか)だろうか?
速さには慣れてきたが、何回聞いても聞き取れない部分は残る。dictation を4回修正しながら完成させて、その答え合わせ結果。
正; 誤の順で。
そういえば、放送大学をたまたま見ていたら、発音をめぐる冒険('12) という講義があり、「標準的な」英語のみならず、世界各国のなまりのある英語も紹介する、ということで、私の見た回ではカリフォルニア州出身の50代から60代くらいに見える男性が発音の特徴について語っていたのが面白かった。
カリフォルニア州訛( accent と言っていた)は、単語を続けることで、しばらく日本で暮らしていて帰国すると、すぐに聞き取れないほどだという。本人の父母はイングランド出身で、父親は educated な明瞭なクイーンズイングリシュを話し、その発音で明瞭でゆっくりとした話し方を日本の語学学校では使っているので、カリフォルニア州に帰国したときに兄弟にその話し方をしたら、「俺は耳が不自由じゃないぞ」と反発されたと語っていた。
flac (free lossless audio codec) という拡張子の音声ファイルのことを先日コメントで触れた方がいて、どんなものだろう、ということで、 flac での ripping ができるソフトを調べてみた。
2011年10月 4日 (火) PCオーディオ、ネットワークオーディオに注目が集まっているらしいで取り上げた「麻倉怜士 『高音質保証!麻倉式PCオーディオ』」という本にも書かれていた方式。
検索してみると、Exact Audio Copy (EACと略されるらしい)というソフトが見つかり、これで flac と 非圧縮の wav で ripping してみたものを、以前 iTunesでrippingした mp3 と聞き比べてみた。
聴き比べの前には、flac が再生可能な foobar2000 というソフトプレーヤーをダウンロードして初めて使ってみた。出力デバイスをデフォルトと、WASAPIの排他モード とで選べるようにもセットしてみた。
結論から言うと、foobar2000の再生音が iTunes や WMP よりも精緻で引き締まっていると感じられた以外は、従来のiTunesでrippingした mp3 でも、CDをそのまま無圧縮でripppingした wav でも 可逆圧縮の flac でも、圧縮方式の違いはあまり気にならなかった。
ソースとして使ったのは、ギリレスのハンマークラフィーア 1983年録音 DG の 第1楽章 所要時間 12'24"
foobar2000で確認した各プロパティーは以下の通り:
まあ、軽くて音のよい foobar2000 が使えるようになったので、よしとしよう。
黄金週間。今年は、カレンダー通りだと5月1日(月)、5月2日(火)の平日で区切られた前半3連休、後半4連休となるが、この平日2日を年次休暇とする人の場合、なんと9連休という長期休みとなるのでうらやましい。
今年になって子ども達が幼かった頃の博物館(ミュージアム)詣りの習慣が久々に復活したかのように、昨日昭和の日4月29日(日)には、また美術館に出かけてきた。「春過ぎて夏来たるらし」のごとく、一挙に初夏の陽気となり、上着を脱ぎ、腕まくりをしながら井之頭五郎の沖縄料理の店が実在するのだろうかと東口側の路地を歩き、結局は見つからず、昼食は熱いものより冷たいものをということで入った中目黒のつけ麺の店(三ツ矢堂製麺)は、満員の盛況だった。
この4月の初めの国立新美術館でのセザンヌ展に続いての六本木行きで、今度の行き先はこの前美術館に行くときに通って、帰り立ち寄った富士フィルムのミュージアムのあるミッドタウン内のサントリー美術館。そこで開催中の「毛利家の至宝」展を見てきた。(今回も大人は無料招待券だったが、高校生はクーポン割引で900円。中学生はここも無料)
この防衛庁跡地の再開発地区の「ミッドタウン」は、江戸時代には長州藩の毛利家の下屋敷(といっても上屋敷が手狭になったため、実質的にはこちらが藩主とその家族の江戸での住居であり、実質的には普通いわれる「上屋敷」として使われたらしい)があった場所ということで、そういえば明治の海軍は薩摩であり、陸軍は長州と呼ばれたように、旧長州藩閥主導の陸軍創設(村田蔵六=大村益次郎、山県有朋、桂太郎の流れ。児玉源太郎、乃木希典などを輩出)だったがために、廃藩置県にあたり旧長州藩の屋敷を接収して、陸軍の歩兵第一連隊の駐屯地としたものではなかろうか?
今回の展示は、そのミッドタウン竣工の5周年を記念して、旧毛利屋敷の縁により山口県防府市の毛利博物館が所蔵する主要な宝物を借り受けて展示したものだという。国宝、重要文化財が数多く、歴史や古美術に興味のある向きにはとても魅力的な展示だと思った。
白眉は、雪舟等揚作の大作国宝「四季山水図」(山水長巻)で、16メートルもある長大な巻物の隅から隅までが展示され、じっくりと鑑賞できたのは、まことに貴重な体験だった。
水墨画の良しあしはよく分からないが、一緒に見ていた次男が、建物などは平面的な描き方ではない一種の遠近法が使われていることに関心していたように、立体感があり、また遠景と近景は(これこそが水墨画の真骨頂なのかも知れないが)、遠景を「空気遠近法」的に描き、近景はくっきりと克明に描いているのが感じられもした。また、人工的な建築物などの描線はフリーハンドではなく、定規のようなものを使用しているのではないかとも見てとれたりもした。雪舟のどこがどのように優れているのかは、日本画の鑑賞眼が無いためよく分からないのだが、優れた眼を技術を持った画家ということは何となくわかった。中国の山水や人々の四季を描い、長い絵巻物ではあるが、その画面の移り変わりは実に自然で、その風景の中に溶け込むような幻想をも見る心地がした。
その他、毛利家の家宝毛利元就の三矢の教えのもととなったような教訓状、徳川家康の防長安堵状(起請文)などの貴重な古文書や、毛利家の祖とされる鎌倉時代の頼朝政府の官房長官的な役職(政所の別当)を務めた大江広元の大江家に関係のあるというような注釈がつけられた平安時代の史記の写本など、さまざまな書画骨董や武具、衣装、茶道具、什器などが展示されていたが、興味深い展示としては、足利義満が明の皇帝から日本国王に封じられたという、「義満さん、いくらビジネスのためのお墨付きがほしいとはいえそれはへりくだり過ぎでしょう」とか、「天皇になろうとした将軍」とか言われる元になった、「日本国王」の木の印鑑が、大内氏を経て毛利氏が受け継いで、家宝としていたとのことで、それが展示されていたのが面白かった。
昨年の出光美術館の雰囲気のことを先日辛口に書いたが、同じ古美術系でもサントリー美術館は、本業が扱っている商品がコンシューマー向けで企業イメージを重視し、また大阪商人系ということもあるのだろうか、係員の応対も品よくスマートで、気持ちよく鑑賞することができた。
混雑度は山水長巻のところが渋滞気味だったが、混雑というほどではなかった。3階からエレベーターで4階に昇り、そこから順路となっているのだが、一緒にエレベーターで昇ったグループとタイミングをずらせば、ゆったりと鑑賞できるように思う。
地下鉄日比谷線の六本木駅への帰路に立ち寄った六本木ヒルズも、数年前に話題になった再開発地区だが、漫画の「ワンピース展」も行われていることもあるのか、まだ人々を引き付ける引力があるのか、ミッドタウンの落着きに比べて、少々雑然とした雰囲気だった。円形の巨大ビルで、丘(Hill)の地形を使っているせいもあるのだろう、初めての者には位置関係が把握しにくく、周囲をぶらぶらと歩き、テレビ朝日社屋のエントランスを見物して早々に退散した。
「銃・病原菌・鉄」の補遺の日本についての翻訳(非公式)を読んでいたら、思い出したものに、「はしばみ」の実がある。
そのまま生で食べられる野生のナッツで、西洋のヘーゼルナッツ(Wikipedia) の近縁種なのだという。
小学生の頃、住んでいた村の小学校の通学路の南方に見える小山の頂上に稲荷社があった。その小山の神社への参道とも言えぬほど狭い登山道の周囲は、カラマツも植樹されず大木は相当昔に伐採されたのだろう、灌木の茂みで、そのほとんどが「はしばみ」だったようだ。
年に一度のお祭りがあり、誰と誘い合って行ったのだったろうか、頂上の神社まで参道の周囲に色とりどりの色紙が飾られ、その間を縫って神社にお参りしたのを思い出す。その行きだか帰りだかに、実っていたはしばみの実を食べた記憶があるので、おそらく秋の日だったのだろう。
もちろん砂糖のような強烈な甘さではないが、カリコリとした触感とあいまった青臭みをまとったほのかな甘みが感じられ、子供心にもとても美味だった記憶がある。少年の日のかすかな思い出である。
WIKIPEDIAではアジア東部に自生していると書かれているので、おそらく遥かなる縄文人たちも貴重なナッツとして他の木の実とともに食料にしていたのではなかろうかと思い、この本の補遺と昔の記憶がつながったのだった。
ところで、各種のドングリやオニグルミ、栃の実、栗の実は、縄文ナッツとして取り上げられることが多いが、はしばみについてはあまり読んだことが無いように思う。ドングリや栃の実は相当根気と技術を要する処理をしなければ食べられるものではなく、またクルミも現在の菓子シグルミほど実の量が多くない。その点、はしばみの実はそのまま生食できるので、とても貴重なナッツだったのではなかろうか?
セイヨウハシバミの同属異種であるハシバミ(榛、英語名:Asian Hazel)やツノハシバミ(角榛、英語名:Asian Beaked Hazel)の実も、日本などでは同様に食用とされる。しかし、セイヨウハシバミの知名度と消費量に比べれば、至極ささやかな利用ではある。
はしばみの実関連のブログなど:
なお、榛の木(はんのき) は、こちらの画像 http://pub.ne.jp/tetraodon/?navi_id=26639 の通り、「カバノキ科の落葉高木。各地の山野の湿った所に生え、水田の畔に植えて稲掛け用としたり、護岸用に川岸に植えたりする。高さ一五メートル、径六〇センチメートルに達する。」 (Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版) 小学館 1988)という喬木だが、「はしばみ」も漢字では、榛 と書くため少々紛らわしい。
はしばみ(榛):カバノキ科の落葉低木。北海道、本州、九州の日当たりのよい山野に生え、ヨーロッパでは果実を食用にするため近縁種を栽培している。高さ三~五メートル。葉はほぼ円形で先が急にとがり長さ約一〇センチメートル、縁に浅い欠刻があり、さらに細かい鋸歯がある。雌雄同株。春、葉に先だって枝先に黄褐色の雄花を尾状花序に密生し、その下部に紅色の雌花を上向きにつける。果実は球形で堅く、下部は葉状の二枚の総苞につつまれる。漢名、榛。(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)
はしばみの実の画像 http://blog.kirinkan.biz/2008/09/2008_4.html (岩手の方のブログのようだが、亜寒帯の寒さに強い植物のようだ。)
この補遺的な日本人論において、縄文時代の日本が、非常に食料に恵まれた地域であり、狩猟採集によって食料を得ていたにも関わらず、住居は定住型だったという指摘は、啓蒙的だった。定住生活は、縄文時代を特色づける遺物である大型の土器類がそれを示すということで、なるほどと合点がいった。
確かに持ち運びが困難なほどの大型の土器を抱えての移動は非常な困難を伴っただろうことから、狩猟採集生活を送っていたにも関わらず、彼らが定住していたという推論は至極納得できることだ。
かつての学校教育では、縄文時代は狩猟採集生活であるとされていただけだったが、果たして定住していたとかいなかったとかを教科書で教わっただろうか?記憶があいまいだが、定住ということは強調されていなかったように思う。
これが啓蒙的だったというのは、定住型の住居跡の遺跡が日本各地で出土しているにも関わらず、私の脳内ではどうも縄文時代=定住という常識にはなっていなかったからだ。無知・無関心が恥ずかしい。
(縄文時代の定住に触れたウェブページ)
http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_joumon.htm
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusyo/281.htm
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/osha001.htm
http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono2/jiyomonnmura/jiyomonmura.html
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/880.html
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244240
http://joumon-juku.com/zatkan/10.html
http://hensuiryuu-taijyutu.seesaa.net/article/216592823.html
http://soundsteps.jugem.jp/?eid=686
http://archaeology.jp/journal/con20abs.htm (考古学会論文要旨)
http://sakudaira.info/history/2011/04/28/ (長野県の佐久地方)
さて、これは特にこの翻訳に出ていたのではないが、同じ遺跡に数千年に渡って縄文人たちが住み続けたことを示すような複合遺跡があることでも、狩猟採集生活にもかかわらず定住していたという推論が成り立つのだろう。
その定住を可能にしたのが、氷河期が過ぎて、温暖化していくにつれ日本列島の大部分が落葉広葉樹林化して多くの木の実(ナッツ)類が取れるようになり、また淡水・海水ともに豊富な漁獲や貝類なども収獲できたことだと指摘されている。
縄文土器があまりにも日本式の新石器時代とペアになっているので、狩猟採集イコール住居移動型、放浪型という至極当然なモデルが逆に思いつかず、縄文式の定住型の特異さに思い至らなかった。
発掘・出土の程度にもよるのだろうが、炭素測定法によると今のところ縄文式土器が「全世界で」最も古い土器になるのだという。これも環境変化に伴い日本列島が人々の定住を許すようになったことの賜物であり、他の世界各地で土器が使用されるのは、現在の出土物からの推定では、相当時代が下り、農業により定住が可能になってからだとされる
日本列島の特異さのもたらしたものであり、縄文人の直系の子孫にあたるかどうかは判然としないが、日本人のナショナリズムをくすぐる指摘でもある。。ただ、その一方で作物の栽培、家畜の飼育に頼らずとも、多くの人口を養えるほど国土が豊かだったがために、縄文時代は約1万年の長きにわたり、当初は先進的だった日本の縄文生活も延々と約1万年も継続したという。
ナショナリズムと書いたが、この日本についての補遺が日本で出版されないのは、朝鮮半島と日本列島の人々の対抗意識を赤裸々に描いていることも理由の一つであるかもしれないし、少々日本人にとっては突っ込みどころがある点にも理由があるのかもしれない。
興味のある方は、ぜひ昨日の記事からリンクをたどってpdfファイルを閲覧してみることをお勧めする。
我々現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンス(旧人ネアンデルタール人はホモ‐サピエンス‐ネアンデルターレンシスと言うらしいが、最近の知見では、現生人類にもネアンデルタール人の遺伝子が少し入っているらしい, 別記事だが、1997年の時点で書かれた表題作ではネアンデルタール人は現生人類に絶滅させられたとされている)が作り上げた現代文明がまだ氷河期を経験していないことはつい忘れがちだ。
本ブログ子は、学生時代に読んだ安部公房の『第四間氷期』が忘れられずに、地球温暖化を危惧しつつも、現在が間氷期であることをときおり思い起こしている。
先に太陽の磁気反転が確認され、その冬眠と呼ばれるほどの活動停滞がどうやら本物らしく、数年前の関連ニュースに触れたこのブログの記事も少なからぬアクセスをいただいたが、江戸時代の八代将軍吉宗の頃の時代(ヨーロッパ音楽史では、ちょうど大バッハの時代)の小氷河期に、記録によると同じように太陽黒点が消えた状態となっており、どうやら太陽の活動の低下 → 太陽表面の黒点が減少する → 地球が寒冷化する という各現象間には因果関係が認められるということらしく、今回の太陽の状態からみてもそう遠くない将来に小氷河期がおとずれる確率が高まっているということのようだ。
このようなシミュレーションのためには、それこそ「京」などのHigh Performance Computer (HPC, スーパーコンピューター)の出番だと思うのだが、シミュレーションのためのモデルの策定は難しそうだし、パラメーターとしてそれに用いる観測データもまだまだ乏しいのではなかろうかと危惧する(このあたり素人談義。というより全篇素人談義だが。)。
さて、朝日新聞が2010年にこの10年間で最も重要な本であると宣まった表題の『銃・病原菌・鉄』 (Guns, Germs and Steel The Fates of Human Societies by Jared Diamond 1997, 2000年日本語版 2012年文庫版) だが、ハードカバー2冊で書店で手に取ることはあったけれど、なかなか購入に踏み切れずにいたところ、ようやく最近草思社としては珍しく?文庫版が刊行された。文庫とは言え相当高価な部類に入るのだが、何とか購入して、ようやく読み始めた。
西洋人の本に多いのだろうが、このような一般向け(と思う)の本でもまえがきが結構長く、また、すでにあれこれと書評などからの予備知識のような粗筋的先入観、バイアスも入っていることもあり、まずはパラパラと興味のある章から読み始めてみた。病原菌に関する章やアフリカに関する章を読んでみたが、これは面白い。(ただ、プロローグで、「環境決定論」について触れてはいるが、やはり「環境決定論」的な主張だと思うし、こうなってしまっている現状の原因を探り説明を加え、決定論的な解釈に至るということは、一面では過去肯定でありかつ現状肯定、過去の人類の罪悪の免責という誹りも受けることにもなるのではないかと思った。)
そういう根本的なところでの疑問はありながらも、このような大風呂敷的な展望が得られる概観書は面白い。あらゆる理論は仮説でもあり解釈でもあると思うが、このような壮大な仮説・解釈には心を揺さぶられる。(原書はもちろん、翻訳も読んだことはなく、竹内久美子の受け売りだがドーキンスの「利己的遺伝子」説だとかもそうだった。)
さて、これに絡めて検索していたら、増補版の「日本人とは何か」の日本語訳があるのが分かり、読んでみた。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-7392.html
これも訳者が脚注でツッコミを入れているような、書かれている対象としての我々日本人からすれば偏った、不正確な記述もあるが、日本人起源論について粗雑ながら大づかみに要領よくまとめてあり、刺激的だし、ここから議論が出発することもあるだろうと思った。これが正規に出版されないのは惜しいと思う。
4月26日に東京地方裁判所で当否は別として政治的に注目すべき判決が出され、よかれあしかれ今後の政局に大きい影響を与えそうだ。
その東京地裁の建物の映像を見ていたら、昨年の10月に出光美術館に行ったおりに、皇居の桜田門を通過して、霞が関の官庁街から日比谷公園経由で新橋駅まで歩いたことを思い出した。そういえば記事にしていなかったと思い、何枚か写真をアップ。
出光美術館は、この前の国立新美術館と同じくやはり新聞店から抽選でもらったチケットがあったので、初めて行ってみたのだった。帝劇と同じビル内にあり、その最上階に狭いエレベーターで昇るのだが、ビルが非常に古く、また天井も低いため狭苦しさを感じる美術館だった。公立の美術館に比べて、係員もあまり感じがよくなかったのは、気のせいだろうか?
展覧会は、「大雅・蕪村・玉堂と仙厓」というもので、日本人ながら西洋美術に比べて馴染みが無いこともあり、池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、仙厓義梵というビッグネームの書画だったが、あまり面白味を感じられなかった。蕪村の俳画の実物を見ることができたのはそれなりに感慨深いものがあったけれど。ルオーやムンクの作品が常設展示されていた。
美術館から出て、二重橋方面に向かった。
(お堀から日比谷方面を望む:左端の低いビルが帝劇と出光美術館だったと思う)
(皇居桜田門から見た警視庁庁舎=通称桜田門)
(同じあたりから遠望した国会議事堂)
(法務省旧本館の案内看板)
(米沢藩上杉家江戸藩邸跡の案内札)
(法務省旧本館、その右に見えるビルが東京地裁・高裁)
ディスプレーの横長画面にはなんとなくなれたが、ブログのおさまりがどうもしっくりこないので、デザインをいじっていたら収拾がつかなくなってしまったため、ココログオリジナルという基本デザインをしばらく使うことにした。
本放送 4/21(土), 4/22(日)は、以前展覧会で実際に見たこともあるエッシャーが題材になっていた。
母国語でも聞き取れはしても、その内容が理解できているかどうかは、聞き取った方の年代、バックグラウンドなどにより千差万別だろうと思う。哲学や法学の講義はもとより、最新の専門用語が連発されるネットワーク系の話題などは、一般人にとっては非常に敷居が高いもので、言葉は聞き取れても、詳細な意味の理解となると別の問題になる。
この英語教材は、今年からNHKの語学番組が尺度として用い始めたCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のレベル分けでは、B2にあたるものだという。難易度から言えば、上から三つ目で、「社会生活上の幅広い話題を理解して、自然な会話ができる」というもの。ちなみにその上のC1は、「複雑な話題を理解して、明確で論理的な会話ができる」、最上レベルのC2は「あらゆる話題を理解して、細かい意味の違いも表現できる」となっている。
さて、今回の題材自体もある程度の予備知識はあるものだったが、ディクテーションの修正箇所は結構多かった。
今回は、書き取り原稿はテキストエディターで入力し、修正はワードで修正履歴管理ができるようにしてみた。
予備知識と含めて、7,8割の情報は聞き取れてはいるのだが、それでも上記ほどのエラーがあると、まだまだだめだろう。
3は版画の技法で、日本語としては当然知っているが、聞く英語だとすぐにはぴんとこない。
4も読む英語では知っているが、聞く方ではだめだった。5はフレーズ。9も読む方では当然の単語だが、聞き取れず。10は専門用語の一つで、身近な英和辞典では市松模様、碁盤の目状の配列となっている。エッシャーが研究し得意とした平面の正則分割のことだ。11はアルハンブラで思い出すべき言葉だが、やはり聞く方ではだめだった。15も spin という言葉が思い浮かばなかった。
それでも、できるところまで自分の力で聞き取り、正誤をきちんと把握してあいまいさを無くすことで、それ以降の同じ文の聞き取りはすっかり楽になる。これは効果があるようなので、このまま続けていきたい。
NHKBSのプレミアムシアターは、日曜日の深夜(月曜日の未明)に放送されるようになってしまった。完全に録画向けの番組編成になった。
この月曜日のメインは、ロイヤルオペラの「トスカ」だったが、時間の穴埋め的にクラシックアーカイヴという名前で、アルゲリッチのイギリスでの録画によるチャイコフスキーの1番、プロコフィエフの3番が放送された。前者はチャールズ・グローブズ翁が指揮だったが、後者は若きアンドレ・プレヴィン。アルゲリッチの容貌はシャープな美貌がまぶしく、プレヴィンはまったくのスリムでビートルズはだしのマッシュルームカットのイケメン。
最近の映像で見る二人しか知らない妻は、アルゲリッチの美しさをほめつつ、プレヴィンの変わりようには心底驚いていた。
妻がご近所さんからいただいてきた筍。掘り立てだという。(撮影日は、その翌日)
早速、米ぬかで下茹でして、軽く味付けして食す。
少しえぐみは残ったが、さすがに掘り立て。さくっとした歯ごたえはあるが、筋張った感触はまったくなく、ほろほろと柔らかい。
参考記事: 2010年1月12日 (火) 鯖の水煮の缶詰め
亜寒帯湿潤気候の長野では、亜熱帯に近い南関東のような立派な孟宗竹は育たないので、かの地の掘り立ての筍と言えば、根曲り竹(チシマザサ)の筍だ。
(昨年6月に妻の実家から送られた根曲り竹のタケノコ)
富士通のトップページには、以前から 日本のコンピュータ情報というバナーがあり時折見ている。
その中では富士通以外のコンピュータ関係の多くの情報も紹介されているのだが、最近見た中で読んで感心し驚いた記事があった。その記事の前後にあった立花隆のスーパーコンピューターに関するエッセイも面白かったのだが、
特別寄稿 日本は、韓国のIT化に追いつけるのだろうか (2012年4月17日公開)
というものだ。
韓国のIT化の現状を紹介したものだが、その進展具合は凄まじいようだ。いつの間にかグローバルでは半導体部品や家電分野で、日本は韓国のサムスン、LGの後塵を拝するようになってしまっているが、国民生活のIT化といった分野での韓国の進み方は、この報告を見る限りすごいようだ。
さて、スーパーコンピューターのように、性能競争で一位を目指さない競争というものは無いと思っているので、素人仕分け人のあのような底の浅い仕分けには反対だったので、理化学研究所と富士通のHPC 京(ケイ)のペタ超えの世界一位の快挙にはうれしかったものだが、IT化については、いわゆるインフラストラクチャーとして許認可、教育制度、医療制度、税制、介護制度などなど幅広く深く関係する社会のIT化については、進んでいるのか、遅れているのか等、判断が難しいのではなかろうかと思う。
ただ、それでもこの記事を読むと、隣国韓国のそのような先進的な取り組みを見習う必要もあるのだろう、との思いもわいてくる。
副題「ベートーヴェン最大の交響曲の神話」
昨年の12月に書店店頭で目に留まり購入し、そのころに通読したもの。
ベートーヴェンの第九交響曲の初演から現代にいたる演奏史と受容史を、音楽愛好家向けにまとめたもので、マニアックな力作と言ってもいいかも知れない。
作曲の過程や曲の分析、演奏の比較などは、先行して存在する多くの研究に譲っていて、これ一冊ですべてというわけではないところに、副題による「神話の形成」的な限定が入ったのだろう。
日本における演奏史、例の第一次対戦のドイツ兵の捕虜による鳴門収容所での第九の初演や、学徒出陣の際の第九演奏も掲載されているし、ドイツのライプツィヒでの年末の第九演奏の習慣なども書かれている。このあたりの論議は、この本をもって打ち止めという感じがした。
名曲や著名演奏家には、多かれ少なかれこのようなストーリー、神話がまとわりつく例が多いように思われる。いかに優れた演奏家でも、いわゆる官僚的・ビジネスマン的に神話のかけらもまとわないような場合には、もてはやされることが少なく、逆に神童伝説や奇矯なエピソードなど、ある種の物語性をまとっていることが、ひとを引き付ける要因なのかも知れない。また、ハイドンの交響曲のザロモンセットにみられるように、どの曲も非常に高水準の曲でありながら、ニックネーム(エピソード)付きとそうでないものでは、取り上げられ方がまるで違うのもその類だろう。
ところで、昨年夏に購入したフルトヴェングラー生誕125年記念で発売されたEMIのバイロイトの第九をこの記事を書くおりに聞き直したが、以前発売されていた同じ音源に大量に入っていた楽音以外の各種ノイズがほとんど聞こえないように処理されているのを再認した。ここまでやる必要があったのだろうか、と疑問に思った。アナログ時代には編集といってもつぎはぎがせいぜいだったのだろうが、デジタルになるとピンポイントでオーディエンスが立てる咳などの雑音を消してしまうようなのだが、あまりそのように処理されてしまうと、録音の同一性保持という点では怪しくなってしまうような気がした。
訂正記事: 上記「ところで」以下について。
2007年7月30日 (月) フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管の第九(東芝EMI盤)で聞いたときには、もっとマーカーとなる雑音がはっきりと多く聞こえたように思ったのだが、改めてPCのiTunesを通してみると結構聞こえた。ただ確かに聞こえたはずの第1楽章 「1:31のコツンという雑音」は聞こえなかったが、「2:39の2回の咳払い」は、数回の咳払いとして聞こえた、など。 今回の記事の際には、DAPの分解能がよいと思い込んでいたので、あまり音量をあげずに聞いていたこともあり、楽音主体でほとんどマーカーの雑音が聞こえないように感じただけだったようだ。デジタルでのオーディエンス雑音除去というのは、根拠の無い思い込みだった。
なお、先日導入したmp3ファイル編集ソフトの mp3DirectCutは、再生を行うと音量(dB)グラフと経過時間が詳細に表示されるので、上記のような聴衆の咳のような雑音の位置の正確な位置(経過時間)特定にはとても役立つ(?)ことが分かった。再生プレーヤーとしても結構面白く使えるようだ。
2012年4月16日 (月) NHK 英語講座 ラジオ、テレビの感想 で書いた通り、攻略!英語リスニング (このリンクはストリーミングが聞けるホームページだが、アクセスが集中すると止まってしまうようだ)に挑戦中。
本放送は、土曜日と日曜日の昼の12時40分から12時55分の週2回。再放送が、日曜日の夜10時20分から10時50分(2回分をまとめて)。
この番組の講師柴原智幸氏の指導は、とても分かりやすく、また励まされる。
「知っている単語やフレーズは聞き取れるがそうでなければ聞き取れない」というのは、至極あたりまえそうな指摘だが、実際言われてみてまさにその通りだと思った。母国語でも、日常会話に出てこない専門用語は文脈が理解できていればなんとなく想像がつくが、そうでなくていきなり単語だけで言われてもわからないのと同じで、外国語でも同じく、接触する機会の多い英語でも耳慣れない言葉は当然山ほどある。とはいえ、すべてを知ることは当然できないし、知らない言葉は、前後のコンテクストから意味を予想することが必要になることは言うまでもないのだが。
これまでの2回のレッスンで使われたモノローグは確かに一回聞いただけでは、その速さについていくことはできないレベルだった。テキストを見ずに何度も聞いているうちに大意はつかめるようにはなるのだが、それでも細部にあいまいさが残る。どうせならと、自己流にこの英文を全部 dictating してみることにした。
それこそDAPで繰り返し聞いて、一文再生しては止めて、PCのエディターに入力することで書き取ってみる。また2回目、3回目と聞き、その前にエディターで入力した文をコピーしておいて、リスニングしながら間違いを修正していく。一応ここまでが限界だという書き取り答案を作成し、テキストと答え合わせをしてみる。こんなふうにしてみたら自分の聞き取りの弱点が結構はっきりわかった。
Lesson 1 A place for brunch
ネイティブの一人語りでは、現在形と過去形が結構恣意的に使われるようだし、またit が主語になったと思えば、同じレストランのことを話すのに they や their が使われたりもする。自分が日本語で日常的に話すときと同じなのかも知れないが、その意味で完全に論理的ではないことも念頭に置く必要があるようだ。
Lesson 2 The Age of Discovery
結構聞き取り違いが多かった。テキストで予習せずにいきなり聞いていたので、まずこのスキットが語られている状況が把握できていないこともあった。
これが語られているのは、高校か大学の教養課程レベルの学期初めに、教師が生徒に概要をガイダンス的に語りかけているというシチュエーションらしい。このくらいのスピードをさらっと一回目で聞き取ることが必要というわけだろう。ここではフレーズを知っていれば間違わなかったような聞き取りミスが多かった。やはり、LとRの区別が付かない。上記の8や9の間違いは、聞き分けができていれば避けられたものだろう。11は読めば分かる単語だが、聞き取りでは思い浮かばなかった。
自分の弱点で聞き取れなかったあいまいなところをそのままにせずに、聞き取りにくい部分、間違えやすい部分をチェックしてリスニングすることは効果がありそうだ。また、声に出し、シャドウィング (shadowing、基礎英語3の言い方では オーバーラッピング overlapping)で、話し手と同じスピードで話し手と同時にしゃべるというのも効果があるという。こちらは話せることは聞けることだ、ということのようだ。
速い速いと思っていても、英語のスキット部分だけ抜き出して会社の通勤の時間などにイアフォンで10回20回と聴けば、次第にリズムや口調にも慣れ、ちょうどバルトークの音楽を初めて聴いたときに滅茶苦茶な音響だと感じていたものが、次第にフレーズに慣れ親しみ、意味的な塊が把握できるようになると、次第に音楽として聞けるようになってくるという経験と同様に、猛烈に速いと感じた英語も、発音があいまいだったりアクセントが極端に弱い部分は別にして、ある程度余裕をもって聞けるようになってくるようだ。
この年になっても進歩があるというのは、うれしいものだ。
満員電車の中でいろんなことをする人がいる。中でも驚いたのは、ストロー付きの飲物を飲み始めた女性。近くにいたくないと思った。もしこぼれたら悲惨なことになる。満員電車の中で、文庫本や新聞を読んだり、携帯・スマホを使うのは、やっている本人はそれに集中しているようであまり罪の意識がないようだが、そのわずかな前方20cmほどのスペースも他のおとなしく立っている乗客には邪魔であり、数人分のスペースが縮小されるだけでも違うのにと思わせるものがある。満員電車ではデイパックなどのリュックサックもスペースをとるからおろして手に持つのが礼儀だというのに。
そんな列車内の文庫本だが、帰宅時のあまり込んでいない車内で、サラリーマン風のスーツ姿の男性が読んでいた本が目に入り、眺めるともなく眺めていたら、ミラノでジュリーニを訪問したとかいう文が読めたので、おそらく指揮者などの音楽家の書いた文庫なんだろうが、誰だろうと頭をひねらせて、翌日本屋で調べてみたら、表題の佐渡裕の最近出た文庫本だった。
昨年のベルリン・フィルデビューにひっかけて出版社が過去のエッセイをまとめて出したものらしい。題名のない音楽会や、辻井伸行ピアニストの番組など佐渡裕の姿をテレビで見る機会は多く、現在の活躍を知っているので、彼の若かりし頃の苦労話には興味深いものがあった。前述のジュリーニ訪問は、彼がミラノに創設された若い音楽家たちによる交響楽団の指揮者に招かれ、その楽団を引退したジュリーニがときおり指導していたというような話題だった。
佐渡裕がベルリンフィルデビューをする前にこのエッセイは終わっているのだが、先の小澤征爾と村上春樹の対談本と同じく、演奏家の体験談というものはとても面白い。
昨年12月の中旬、同じ著者の『海の史劇』を読んだ後、購入して読んだ。
日露戦争は、日本海海戦での勝利は圧倒的で華々しく、陸軍戦では奉天開戦に勝利はしたが、依然としてロシア帝国首脳の戦意は衰えず、ロシア国内の革命の動きが無く、戦争が継続していれば、講和そのものが成り立たないほど日本は追いつめられていた。
当時の政府首脳は、対露の講和交渉を有利に進めるためにも、国民に日本財政上、軍事上の苦境を明らかにできず、何も知らず、何も知らされていない日本国民は、東大の教授陣を初めとして、ロシアに対して領土割譲、多額の賠償金の要求をするよう日本政府に求めるほどだった。
その苦境の中、かろうじて日露講和を成し遂げた小村寿太郎という外交官の苦闘の半生を描いた歴史小説がこの『ポーツマスの旗』。この小説自体、かつてドラマ化もされたが、昨年末に最終回を迎えた数年掛かりの歴史ドラマ『坂の上の雲』では、小村寿太郎を竹中直人が演じて深い印象を残したわりには、原作自体が講和条約までを詳しく書かなかったこともあり、日露講和の過程はこのドラマではあっさりと流されてしまった。
そのこともあり、今回も補足として吉村昭のこの著名な作品を初めて読んだのだが、その迫真的な面白さに正直参ってしまった。ここに外交交渉というものの典型が描かれ、当時の日本政府によるロシアかく乱のための革命援助が描かれ、ヨーロッパの第三国での外交の機密情報の虚虚実実の奪い合いがあったりで、まったく事実は小説よりも奇なり(これも小説ではあるのだが)を実感した。
吉村昭の作品は、読むたびにそのすごさを思い知る。
2006年10月に記念艦三笠を見学した折に撮影したポーツマス条約の署名のレプリカ。左にロシア全権のウィッテ、右にJutaro Komura の文字が見える。
関連記事:
2011年12月 5日 (月) 吉村昭『海の史劇』(新潮文庫)
2010年1月13日 (水) 節分の福豆と 「坂の上の雲」の秋山真之の好物 炒り豆
紅山雪夫という文筆家の著書を読んだのは、『ヨーロッパものしり紀行 神話・キリスト教編 』(新潮文庫)をブックオフの店頭で見つけて購入したのが初めてだったのだが、 旅行ガイドを生業にしていたということで、旅行ガイド的な説明ではあるが、広く、そして深く要領のいい解説記事の面白さにはまってしまった。
そこで、『イスラムものしり事典』、『ドイツものしり紀行』、『ヨ-ロッパものしり紀行 《くらしとグルメ》編』を相次いで新刊書店で購入し読んでみたが、特に音楽政治経済関係で多少知識があるドイツとは異なる、いわゆる観光ルート(ロマンチック街道など)を中心としたドイツ解説ながら、分かりにくい神聖ローマ帝国時代などを要領よくまとめ、街道ガイドをかねた分かりやすいドイツ史の解説になっており、とても面白いものがあった。ただ、主に南ドイツ、ライン川周辺の紹介で、北ドイツやベルリンなどには触れられていないのが残念ではあるが。
以前世界遺産としてトリア(Trier)のポルタ・ニグラがテレビで紹介され、その町の名を知らなかったと書いたことがあったが、それら歴史的・観光的に著名な地域というのは、ドイツ音楽の関係ではあまり触れられることがなく、この本で読めたのは結構収穫だった。
その他、上述のヨーロッパものしり紀行は、短いコラムの集合ではあるが、一応テーマ的にまとめられていて、それぞれ面白く読め、勉強にもなった。
『イスラムものしり事典』は、宗教の紹介ではなく、現代イスラム教徒の生活と、そこに旅行に出かける際の注意など現実的な知恵、また、イスラム建築について詳しく、堅苦しくないイスラム入門になるのではなかろうか?
他にもフランス、スペインなどをテーマにした本も出ているようで、著者自身旅行ガイドとして現地に何度も足を運んだという背景があるようで、その点実感を伴った解説になっており、気軽に読むにもとても良い本だが、書物的な知識のつぎはぎではない点でもよいものだと思う。
美術大学の学生たちを主人公にした『ハチミツとクローバー』で知られる漫画家だが、少年誌に『将棋界』を舞台にした漫画を連載し、つい最近発売された巻でようやく7巻目になった。
プロの将棋界のディープな描写も迫真性が感じられて面白いが、主人公と親交を深める和菓子屋一家の描き方がとても興味深く、そこで餌をもらっている猫たちの描き方が何とも言えず楽しい。次第にシリアスないじめ問題を描き、その解決によるカタルシスももたらす。数年前、漫画大賞を受賞した作品ではあるが、息の長い連載で、数か月ごとの単行本の刊行が待ち遠しい。
題名は、英語のことわざの March comes in like a lion, and goes out like a lamb. に由来するのだというが、作中のコラムか何かによると、3月が棋士たちにとってシビアな月であることにひっかけているとか。
英語関係の全放送というわけではないが、NHKラジオとテレビの語学放送を録音したり、録画したりして、聞いたり練習したりしてみている。
これまで、自分に合いそうだと思われるものは、ラジオとテレビで以下の順だ。
ラジオ第2放送
テレビ
老舗のラジオ英会話だが、高校の頃聞いていた感想と同じく、日本語が多すぎる気がする。対象とするシチュエーションも幅広く、逆にかえってポイントがしぼりにくい感じがする。利用方法によってはダイアログを丸暗記するなどして効果を上げている人もいるようだが、ラジオ放送を聞いて、会話をリピートしているだけの普通の勉強方法では、身につく実感が希薄だ。
ラジオという、まだ現役だがいうならばlegacy 的なメディア(といってもウェブ受信をしているのだが)に対して、語学講座のウェブサイトの方はこれまで利用したことがなかったのだが、今回アクセスしてみたらコンテンツも豊富で、ざっと眺めてみたところ、特にニュースで英会話のサイトなどはタイムリーで実践的で相当充実した使える内容になっているようだ。
土曜日の天声人語欄に、梅と桜の開花期の話が載っていた。新潟育ちの堀口大學と岩手育ちの石川啄木を引いて、春は南から北へ移るにつれて開花期の差が小さくなるというような話題が書かれていたが、春はそのように緯線を上るだけではなく、等高線も上っていくことを書いてほしかったのは、信州生まれの感覚だろうか。標高の高い土地の多い信州では、春は下界の方から次第に上ってくる。
さて、テレビの視聴率ほどあてにならない数字はないのではと思うがいかに。この数字、何やら大層な権威を持たされ、通常はテレビに批判的なはずの紙媒体のマスコミも その信頼性にメスを入れることなく、相も変わらず紙面に視聴率ランキングを掲載している。
その視聴率が低いという理由で不調という形容詞付きで語られることが多いのが、2012年の大河ドラマ『平清盛』だが、私には十分面白い。
昨年の「江(ごう」は歴史ドラマとしてだけでなく、脚本、演出、演技自体の水準が低かったと思うが、今年の大河に面白さを感じない場合には、別の理由があるのではないのだろうかと思ってしまう。開始当初に兵庫県知事が画面が汚いとかのたまって、観光に支障が出るとかわけのわからない発言をしたが、贔屓する者にとっては、どうも『清盛』には偏った批判が多すぎるのではなかろうかと感じる。
清盛が大河で主要登場人物として登場したのは、はるか昔の『義経』、『新平家物語』、近年では『源義経』などだろうが、今回の大河は、主人公を美化しすぎる最近の大河の底の浅さに比べて、その点の不満も少なく、多面性のある人物として描かれている。
少し薄汚い風体だが活力に溢れた清盛や周囲の平家武者、源氏の武者たち。それをとりまく平徳子や頼朝の母、常盤御前などの女性たち、のちの西行法師の佐藤義清や、白河法皇、鳥羽上皇、崇徳天皇、待賢門院などや、保元で対立する藤原摂関家の面々、のちの信西等々、一癖も二癖もある多士済済たる登場人物たちの絡み合いが面白い。
この少々複雑な人間関係ドラマが、平家物語の前史である保元物語、平治物語の筋を知らない非歴史好きには把握しにくいのかも知れないが、これらの人々が引き起こす保元平治の乱こそ、親子兄弟を巻き込んだ複雑な悲喜劇であり、これこそ平家物語に至る助走(序奏)だったわけで、このあたりの描き方は実に面白く、毎回楽しみにしているところだ。
このように重要な登場人物が多いため、枝葉末節を整理しての単純化が難しく、分かりにくい面もあるかも知れないが、全体の4分の1が経過した最近までは、それでも助走的・状況説明的な部分であり、これからの清盛の活躍が本番だろう。(追記2012/04/29 源義朝の弟で、木曽義仲の父である源義賢が登場し、為義から源氏の家宝である太刀を譲りうけた。これがのちに、義朝の長男である悪源太義平との紛争の元になるのだろう。まだ為朝は未登場のようだし、この辺りになると登場人物がどのように取捨選択されるのか気になるところだ。)
かつて、俳優陣や脚本家、演出家には、視聴率が低くても、視聴者の評価が高く、番組終了後のDVDセットの売れ行きがよかったという朝ドラ「ちりとてちん」のような例もあったことだし、これら関係者にはめげずに最後まで質の高いドラマを作ってほしいものだと、律儀に受信料を払っている「視聴者にみなさん(皆様でないところがNHK的スタンス)」の一人からのお願いである。
関連記事:
2005年1月17日 (月) 大河ドラマ 「義経」を見始める
追記 2012/04/28:
このような記事を書いたから余計そう思うのだろうが、このところあちこちでこの番組の低視聴率と、「いや面白い」というような意見を見たり読んだりするような気がする。特に下記のURLでも挙げた朝日新聞の「低視聴率」特集(4月21日)がきっかけになっているような気がする。この記事についてはいろいろと問題があるようで、これもひとつの朝日的バイアスだろう。およそ、マスコミの識者、街角コメント・インタビューは、ある編集方針のもとに都合のいい部分だけを切り取り編集して公表されるもので、他人の褌的なマスコミの程度を示すものの典型だと思う。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/04/28/kiji/K20120428003135950.html
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/donna/20120427-OYT8T00654.htm?from=os4
http://www.asahi.com/culture/update/0421/TKY201204210140.html
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-1712.html
http://jidaigeki.no-mania.com/Entry/102
@nifty のbizmash! というウェブページが最近始まったようだが、その中の記事に ライフ・ニュース / これであなたも美術通? Googleアートで日本の美術館・博物館の所蔵品を鑑賞できる というのがあったので、見に行ってみた(4月12日のGoogle検索ページですでに宣伝されている。 日経BPには国内美術館参加の記事4/9)。
ウェブ美術館はインターネットの初期から数多くあったけれど、今回のは結構インタラクティブで、実際美術館の中を見て回れるようなサイトもあり、また画像も精細で美しい。
ただ、やはり本物の持つ凹凸の分かるタッチや角度や光線によって色彩が生き生きと変化する様までは、当然ではあるが、再現はされえない。
たとえば、オルセー美術館のゴッホの自画像は、はるか昔に現地で実物を見てその色彩とタッチに圧倒されたのだが、ウェブではこんな風に見える。相当のアップまで可能なので、その荒々しくも絶妙なタッチが詳細にはわかるが、立体感は残念ながら得られない。絵画は平面的なものと言っても、このような作品では厚塗りの絵の具の効果はけっして無視できないものだと素人ながら感じる。現在の3Dは仕掛け絵本のような立体性なので、まだこのような微妙な凹凸の表現は無理だろう。
また、美術館の内部を移動しながらこんな風にも見える。
http://www.googleartproject.com/ja/collection/musee-dorsay-paris/artwork/self-portrait-vincent-van-gogh/479307/museumview/
この前テレビ番組で紹介していたが、内装が大幅に改装されて、現在のオルセーの内部はこんな風な暗色系の壁になっているらしい。
ウフィツィのレオナルドの受胎告知は、数年前国立博物館で実物を間近に見ることができたのだが、照明の加減かもしれないが、何かオーラのような輝きを放つものだった。
この画像では残念ながらそこまでの感覚的な刺激は得られない。
すでにウェブ時代のため、発売をやめたMSのデジタル百科のエンカルタにこのようなインタラクティブなコンテンツはあったように記憶するが、現在はすっかり高速回線によるウェブの時代となり、ウェブでこのようなものが楽しめるとは!というところだろうか。
注意:上記日経BP ITPROの記事によると
GoogleアートプロジェクトのWebサイトは、Web記述言語「HTML5」の新技術を利用しており、新技術に対応していないInternet Explorerで閲覧する場合は、無料のプラグイン「Google Chrome Frame」をインストールする必要がある。
とのことで、firefox11やWindows用のSafari 5.1.5 では問題なかったが、IE9.0だとこのようなメッセージが表示されてしまう。IE9.0が技術的に遅れていると言っているのかも。(しかし、一方では、このネット社会におけるウィルスやボットの危険性を認識していながら、その中でGoogleが開発しバージョンアップを繰り返しているAndroidOSを搭載したスマートフォンのセキュリティが脆弱すぎて、大量の個人情報が危険にさらされているという最近のニュースを読むにつけ、何だかな、という感じである。)
You’re missing out… Sorry, the Google Art Project uses technology that your browser doesn’t understand. Install Chrome Frame for Internet Explorer to improve your experience of using the web. It’s simple and only needs to be done once. Install Chrome Frame.
追記: Artist 別の索引はファーストネーム順だけしかないようなので、使いにくく感じる。
先の記事の フェルメールは、ヨハネス・フェルメール で Jの部で Johannes をスクロールして探し、Johannes Vermeer にたどり着くしかないようだ。
http://www.googleartproject.com/artist/johannes-vermeer/4127034/
残された作品が30数点、うち14点と結構多くの作品をここで見ることができるが、まだマウリッツハイスは登録されていないようだ。
2012年4月 1日 (日) radika を活用してのNHKラジオ語学放送 で、mp3録音を活用し始めたが、このときできればいいと思っていた mp3をトラック分割できるフリーソフトが、完全に希望通りではないにしてもなんとか見つかった。
どうもトラック分割というのは、一つのファイルの中にindex情報のようなもの(Cueというらしい)が書き込まれて、部分部分を頭出しできるものだという固定観念があり、その方向で探していたのだが、なかなかそれにジャストフィットするような機能を持つものが見つからず、逆にトラックの初めと終わりの位置でファイルを分割するというものは何件か見つかった。
ただ、改めてよくよく考えなおしてみると、CDのリッピングでも楽章(トラック)ごとに1ファイルに分割されてmp3に変換されるのだから、トラック分けとはファイル分割とイコールでよいわけだ。それをプレーヤー側で頭出し的に使うということになるのだから。
フリーソフトだが、国産の Audio Editor と、どうやらドイツ製らしい mp3DirectCut があり、これらをインストールしてみた。特に 後者はマニュアルでの分割がやりやすく、前者は結合が軽快に使えるのがいい。
前者では、うっかり二つに分けてしまったラジオ録音を繋げてみたが、雑音も入らずきれいにつながった。
また後者で、先日録音したFM放送のムラヴィンスキー特集で、曲ごとにファイル分割をしてみたが、編集ポイント(ファイル分割の位置)を見つけ出して設定するのに少し時間はかかるものの、劣化もなくきれいに分かれてくれた。
参考サイト: MP3 音楽料理教室
最近の映画は、シリーズ化されることが多いのか、近日公開の前景気をあおるために、まだ公開されてそれほど時間の経っていない新作がテレビ放映されることが増えているように思うが、論議と話題を呼んだ『シャーロック・ホームズ』が先日放映され、3月の末に家族で楽しんだ。
http://www.cinematoday.jp/page/A0002531
映画の概要は、このリンクにある通りだが、昨年放送されて話題を呼んだBBC制作のテレビドラマシリーズ『シャーロック』とは違って、舞台設定はそのまま光と陰のコントラストが強いヴィクトリア女王治世のロンドンで、ちょうどタワーブリッジが建設中という場面が、時代設定的になるほどと思わせるものがあった。
屋上屋を架すような平凡な感想ではあるが、ホームズ役の容貌、体型や性格設定、演技は相当違和感のあるものだった。ストーリーは原作の登場人物を寄せ集めたパスティーシュもので、アクションシーンも一つの解釈としてはそれなりに面白かったが、知的で静謐なイメージはほとんどなかった。もっとも、原作も作品によっては、猥雑さや俗っぽさも感じられるものがあるので、そのような面を強調したのかも知れないが。グラナダのジェレミー・ブレットのホームズとは対照的だった。
音楽は、『シャーロック』の方がこの後で制作されたのだから、こちらがオリジナルなのだろうが、ジプシー(ロマ)風のツィンバロン風の音色が妙に扇情的なもので、とても印象的だった。
第2作を見たいかと聞かれれば、テレビで放送してくれれば、というところだろうか。
狭いスペースでノートパソコンを使っているので、これまで有線式の光学マウスの長い1mほどのコードとUSB端子の飛び出しが結構じゃまだった。それに、7年も使っているせいもあるのか、パッドの無い場所での反応が最近特に悪く、だましだまし使ってきた(タッチパッドはよほどの場合でないと使わないので)。
最近、ガラステーブルや透明シート上でも使えるBlueLED式のマウスが人気なようで、2.4GHz無線方式のマウスも相当値段的にこなれてきたらしく、最寄の家電量販店の店頭には選べないほどの種類のマウスが展示されていて、あれこれ悩んだ末、バッファローコクヨサプライのBSMBW05 という製品を先週金曜日の昼休みに購入した。
試しに勤務先で使用しているPCで使ってみようと、親指の先ほど小型のレシーバーをUSBソケットに挿入してみた。すぐにドライバーがインストールされたので、マウスの底面にあるスイッチを入れてみたのだが、あれこれいじってもポインタがまったく動かない。もちろん裏面のコネクトボタンを長押ししたり短く押してみたりしたのだが、改めてドライバを削除して入れ直しも試みたがうんともすんとも言わず、電池の残量も十分にある。あれこれ調べてみると無線の干渉が原因ということもあるらしいので、帰宅後早速自分のPCで試してみたが、まったく同じ症状。ネット検索してみても、初期不良以外はこのようなケースに該当はなかった。
そこで、昨日、火曜日に購入店の修理窓口に持っていったところ(クレームを付けにいくわけではないがこういうのは結構億劫)、まだ十分保証期間(6か月と短いが)内なので販売窓口の方に行ってもらえれば現品交換での対応になりますと言われ、PC製品を扱う窓口に行ってこれこれだと事情を話すと、やはり現品交換での対応になるとの回答だった。
不具合のあるマウスを、店頭係の人が展示中のノートPCにセットして動作確認してくれたが、やはりピクリとも動かず。一応コネクトボタンなどを操作してもだめ。次に店頭のまったく同じ品物を開梱して、レシーバーをセットしたところ、特にコネクトボタンを押さなくても一発でポインタが動作した。不具合品はやはり初期不良品だったようだ。
そんなこんなで、ちょっとした紆余曲折はあったが、ようやく火曜日の夜からは無線マウスを使ってみている。コードやプラグに煩わされることなく、マウスの動きも精度が高く、これまで乱反射などで動きが悪かった木の机の上でもまったく問題なく、思った位置にポインタが動いてくれる。宣伝文句ではないが、それこそ布や畳の上でも正確に動くのはすごい。
今はなんでもワイヤレス、無線ばやりで、充電まで無線化されるそうだと言ったら家族は驚いていたが、この便利さには抗しがたいものがある。
【追記】PCがBluetooth搭載ならばその機能を使えばいいのだが、普通の無線の場合PC側に専用のUSBレシーバーを付ける必要がある。現在のものは、ほんの2cmほど出っ張るだけの超小型なものなので、普段使いにはわざわざ取り外さなくても使えるのが便利だ。